タジキスタン・パミール再訪記22 〜ドゥシャンベ→クルガンテッパ〜
2023年5月5日金曜日。パミールからドゥシャンベに帰還し、今回の旅も終盤。日曜日にタジキスタンを発つまでの間に、クルガンテッパに行く予定だったのだが……?
宿での1日
ドゥシャンベに帰還した翌朝、体調は依然として悪かった。食事は宿の朝食を食べようとしたが、ほとんど食べられなかった。
クルガンテッパ行き計画
ドゥシャンベに帰還してから日本帰国までの間には、当初予定ではこの日にクルガンテッパ(クルガンチュペ/ボーフタル)に行き、翌日ドゥシャンベに帰還してジャマーアト・ハーナやヒサール要塞に行き、その次の日の飛行機でドゥシャンベを発つことにしていた。
クルガンテッパには知人のHさんがおり、「タジキスタンに来たらクルガンテッパにも来てほしい」と言われていた。しかし、体調が悪くて今日は行けそうにない。
タジキスタンからは明後日の飛行機で発つ予定なので、今日行けないとなると、クルガンテッパに行くのは難しいのではないか、と思った。
しかし、改めて調べてみるとドゥシャンベからクルガンテッパまでは1時間かそこらのようである。明日クルガンテッパに行っても、明後日の朝早くドゥシャンベまで戻れば十分に余裕を持って空港まで行けそうである。
Hさんには、今日は行けないが明日体調が良ければクルガンテッパに行く、と連絡した。
結局、この日は一日中宿の部屋にいた。エネルギーは、宿の受付でコーラ的なものを買って飲んで補給していたのだと思う。
ドゥシャンベ→クルガンテッパ
翌日、体調は依然としてあまり良くなかったが、前日よりかは朝食を食べることができたと思う。クルガンテッパまでどうにか行けそうな気がしたので、行くことにした。
宿を発つ
宿の受付のお兄ちゃんに、クルガンテッパまでの行き方を聞いた。私のタジク語力では多分50%くらいしか理解できなかったが、多分どうにかなるだろうと思える程度には理解できた。
荷物は、なるべく身軽にしたかったのと、明日の朝早めに帰ってきて宿で休みたかったこともあり、チェックアウトはせずに貴重じゃないものはスーツケースに入れてベッドの上に置いておくことにした。
受付のお兄ちゃんに教えてもらったとおり、宿の前でタクシーを拾い、クルガンテッパ行きタクシー乗り場へと向かった。
ここから先は、シュグニー語もワヒー語も通じない、タジク語の世界である。パミールとは言語も文化も違うディープなタジク世界に入っていくんだ、という気がした。クルガンテッパで会う予定のHさんも、パミールとは特に縁の無いタジク人である(但し生まれはウズベキスタンとのこと)。
(なお、クルガンテッパは何年か前に「ボーフタル」に改名されたようだが、今回気付いた範囲内では「ボーフタル」という呼称は聞かなかった。クルガンテッパでは「ボーフタル」という単語を含む看板もあったような気がする。)
クルガンテッパ行きタクシー乗り場
クルガンテッパ行きタクシー乗り場は、ドゥシャンベの南西部にある。
クルガンテッパはタジキスタン第3の主要都市だが、公共交通機関のあまり発達していないタジキスタンにおいて、首都ドゥシャンベとの間の主な交通手段は乗合タクシーである。
乗合タクシーは助手席に乗ることができた。ある程度待って他の乗客も乗ってきた。
お客は助手席に私、後部座席に2人だったと思う。パミール行きの乗合タクシーより小さな車だったが、車内は余裕のある乗り方をしていた。荷物は、パミール行き乗合タクシーでは車の上に載せていたが、こちらはトランクだった。
ドゥシャンベ→クルガンテッパ
20〜30分ほど待って、乗合タクシーは出発した。
しばらく走ると門のようなところを抜け、それからは片道2車線の高速道路的な道路を走る。草原を主体に、開放的な山の近くも走る道だった。運転手さんとも多少はタジク語で雑談できた。
道は、クルガンテッパに到着する手前に少し未舗装のところがあった他は舗装されていた。
クルガンテッパ
クルガンテッパ到着後、Hさんに連絡を入れた。
しばらく待った後、Hさんと無事会うことができた。挨拶をし、タクシーに乗ってHさんの家へと向かった。Hさんとの会話は、最初の挨拶はタジク語だったが、その後は私のタジク語力不足もあり、時々タジク語をはさみつつも英語がメイン(稀にロシア語も)になった。
Hさんの家は、家の入り口は2階で、大きな広間があり、左右に部屋が並んでいるようだった。かなり広い家だと思った。
入り口を入って左手手前の部屋に入った。部屋の中には果物、ナッツ、お菓子類が、一部が天秤のようになっている装飾性の高いうつわに盛られて用意されていた。Hさんに勧められそれらを食べるが、体調不良であまり多くは食べられなかった。申し訳ない……
クルガンテッパ散策
しばらく休んだ後、夕方になって、Hさんにクルガンテッパの町を案内してもらった。
豊富な水が流れている用水路に沿ってしばらく歩き、町の中央の広場的なところに着くと、独ソ戦勝利関係と思しき祭典が開かれていた。パミール風ではないタジク風の民族衣装を着ている女性も多くいて、パミールではないタジキスタンに来たんだな、と感じた。
祭典は終盤のようで、間もなく撤収作業に入ったようだった。
広場を離れてしばらく歩くと、馬にまたがったイスマーイール・サーマーニーの像があった。ドゥシャンベのルーダキー公園近くの像とはまた違った印象を受けた。
広場にいる時、お腹の調子が再度悪くなり、近くのトイレに行った。トイレの中は暗くかつ非常に悪臭で、鼻ではほとんど息ができなかった。
スマーイール・サーマーニー像のある場所の少し先の通りを歩き、Hさんは以前住んでいた家の場所の話し等をした。住宅地を通り抜けてHさんの家に戻った。
夜はHさん宅に泊めさせてもらった。Hさんとしては、もっとクルガンテッパを案内したかったようだが、私のほうの体調不良で、夕方に少し散策した他はHさん宅に留まっているだけになってしまった。申し訳ない……
(続き)
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