目を背ければ悔やむという理
器用貧乏であることはもう、小学生の時分から自他共に認めていた。
母にそう言われて、「器用貧乏の呪い」がかかったのかも。
極める前に他のことに目がいって。
褒められるためにはやっていなかったし褒められ下手だったので、すぐに居心地が悪くなって、止めて。
どうやら、私は今世、「休憩」が今回の人生の目的のようだと、日本人の平均的な“人生の折り返し地点”に近づいて感じるようになった。
私に、何年も前から「アウトプットしなさい」という声が心に届いていた。
でも、しなかった。
書くことはまったく苦でないのに。
私がアウトプットしなくても、すでにこの世には私と似た答えや私以上に面白いストーリーを持つ人たちが、ごまんと発信しているから…
と考えて、怠けた。
私は、もっと落ち着いて自分と向き合い、自分のために費やす時間を増やすべきだったと思う。
いや、それを望んでいながら、それを叶えてやることをしなかった。
計画して実行する器用さだけは、まるでない。
不器用な器用貧乏だ。
初めてここに書くのが、こんな内容になるとは。
秋めいてきたせいだ。
久しぶりに、Sigur Rós とSteindór Andersen の曲に聴き入った。
Sigur Rós から長いこと離れていた。
また壊れそうで、聴けなかった。
誰のせいでもなく自分が選んだ事とはいえ、失うべきではないものを手離し、私の心はとうとう壊れた。
私は愚かなのだ。
壊れた。でも、生きている。
ただ、一度傷んだものが完全に戻ることはないという事を身をもって知った。
もう一生会えなくなったとしても、いつか、どういう形かで、会うだろう。
とにかく今日、私は書いた。自分の心の中を、不器用に、少しだけ。
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