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学問を修める、とは

 学問を修める、とは何だろうか。

 自分の専攻として勉強しているものが、学問と呼ぶことができるのかすら怪しい。ずっと分からなかった。というより、最初はこれが学問だと思っていたが、途中から学問なのか分からなくなった。


 大学1年生では教養に関する授業がメインだが、同じ学部の同期よりも先に専攻に関する勉強を開始した。私は「法」学部に入学したため、専攻と聞かれたら広義の「法学」ということになる。法学といっても、その分野は多岐にわたるが、大きく分けると「基礎法学」と「実定法学」に分かれる。
 基礎法学には、法哲学や法史学、法社会学、比較法学などが含まれ、哲学や社会学、歴史学など他の分野と関係する場合もあり、必ずしも特定の法律を学問の対象とするわけではない。これに対し、実定法学は法解釈学と立法学に分かれるものの、法学部に進学したら学ぶこととして一般的に想像されるものである。例えば、民法や刑法など特定の法律を対象とする。


 私は、基礎法学には触れることなく、まず民法の教科書を手にとった。民法はどのようなことを規律しているか、この条文はどのように解釈すべきかといったことを学び始めた。前述の分類では、実定法学の中の法解釈学に含まれることになる。

 学部の民法の授業でも、大まかにいえば同じようなことをする。これが、法学という「学問」なんだと思った。「学問」として民法を学んでいくうちに、ますます面白くなっていった。そこで、ゼミも民法ゼミに入った。


 ただ、途中からこれが「学問」なのかよくわからなくなってきた。

 最初は全く意識していなかったが、法学部生であれば「予備試験」というものを聞いたことがあるのではないか。正式には、司法試験予備試験といい、司法試験を受験するための資格を得るための試験だ。3年生の始め頃だったか、周りで予備試験を受けるという話を頻繁に聞くようになった。難関な試験であることは間違いないが、言ってしまえば、ただの資格試験だ。確かに法律の試験だが、法学とは違う、どこかでそう思っていた。

 ところが、自分も同じ道に進むために勉強し始めると、私が今まで学んできたことと何も変わりがなかった。全くと言っていいほど違いがなかった。それは、一方で私が法解釈学をメインに勉強してきたからであり、他方で司法試験ないし予備試験においては事案の処理として法解釈に対する理解力が求められるからである。当然のことである。しかし、当初それを理解しておらず、私を混乱させた。「学問」としての法学を学んでいると認識していた私には、どうも簡単には受け入れられなかった。


 私が認識していた「学問」は、学問なのか。学問とは何だ。

 Twitterのある投稿で「法律学を体系的に学ぶために予備試験の勉強を始めた」と書かれていた。それは法律学の勉強なのか、疑問でしかなかった。よくわからなくなって、いつからか焦燥感に駆られるようになった。

 大学を卒業した者が全員本当の意味で(それすら分からないが)学問を修めたといえるかは甚だ怪しい。学問を修めるべきなのかも。しかし、学校の国数理社英といった授業科目を学ぶ意義も分からずただ真面目に勉強してきた私は、ひどく抽象的に、大学に入った以上は学問を修めたい、という強い気持ちがあった。

 そこで、学問といえるものを探そうともがいた。資格試験の勉強と違う点を見出そうとした。ゼミの時間では、その資格試験の勉強では扱わないような深い議論に立ち入ることも多いのだが、その議論に参加するたびに知的快感を覚えるようになった。これなら学問といえるのではないかと、すがりつくような思いだった。そうして、深い議論にのめり込むようになった。

 ただ、当然のことながら、資格試験の勉強からはずれていった。時々、方向性を間違えていないかと親友から指摘されることもあった。


 4年生の終わりに近づいた頃、ゼミである文献を読むことになった。
民法学者の川島武宜先生が書かれた『科学としての法律学』(1958年、光文堂)である。その中では、「法律学とはどのような学問であるか」について書かれており、また、法律学(法学)を学ぶ学生たちの「誤った興味」についても言及されていた。

 「誤った興味」を持つこととは、

「人がひとたびこれらの技術に或る程度精通すると、普通の素人にはわからない秘伝奧伝的技術を身につけたと感じて、それらの技術を運用することに一種の職人的な快感を覚えるようになる。」ということである。

 1年生の頃に「学問」だと感じていたものは、まさにこれだった。この皮肉に溢れた表現が痛いほど分かった。他方で、私が今まで「学問」だと思っていたものは、法解釈学という学問であることに違いがなかった。あぁ、やっと腑に落ちた。ちゃんと学問だった、安心した。ゼミの番外編として扱ったものだったが、思わぬところにヒントがあったものだ。

 

 抽象的に思っていた「学問を修める」ということは、何をすれば、どこまで勉強すれば、成し遂げることができるのかは結局分からない。それでも、修めようとしていた学問は認識できた。私にとっては大きな一歩だった。だから、彷徨って方向性を見失うことはないと信じたい。

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