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もし、人生で頑張れる量が決まっているとしたら。

心や身体のことに詳しいわけじゃないし、有識者でもなんでもないけれど、「人には、一生のうちに“頑張れる量”が決まっている」んじゃないかと、思う時がある。


たとえば、Aさんの「頑張れる総量」が全部で「100」だったとしたら、人生の中で頑張れるのは「100」だけ。その「100」は人生の中でどう分配してもいい。高校の部活動で「10 」、大学受験で「30」、就職活動で「20」、仕事で「40」......。でも、全部使い切ってしまったら、もう終わり。倒れたり、病に冒されたり、無気力状態になったりする。


「頑張れる量」を使い切ってしまった/もうすぐなくなってしまうけど、それでもまだ頑張りたい、という人は、ゲームのように回復アイテムをGETできれば、また頑張ることができる

その回復アイテムは、ある人にとっては「食事や休息」かもしれないし、ある人にとっては「家族や友達からの励ましの言葉」「お客様からの感謝の言葉」、またある人に とっては「誰かからの賞賛」かもしれない。


「頑張れる総量」は人によって違う。屈強な体格をした人だって、実は「50」しか持っていないかもしれないし、華奢な身体つきの人が「200」を持っている可能性はある。だから、自分の尺度で頑張りを求めると、立ち上がれなくなったり、相手が潰れてしまったり、ちぐはぐなことが起こってしまう。

赤ちゃんの頃は「頑張れる量」をドバーっと出すことはできない。歳を重ねていくにつれて、少しずつ量が出せるようになる。でも、老いると、「頑張れる量」がどんなに有り余っていたとしても、ドバーっと出すことは難しくなる。

例えるなら蛇口のようなもので、生まれてすぐはちょろちょろとしか出せないものが、成長に合わせて徐々に「適量」を捻れるようになり、老いていくと、錆び付いて、思うように出せなくなる。そんな感じ。



......——なんていうのは、仮定ですらない妄想話なので信じないで欲しいのだけど。

でも、ここ何年も、思うように頑張れない日々が続いていて、「人生で頑張れる量が決まっているとしたら、私はもう、全部使い切っちゃったのかもしれないな」と冗談半分に思っている次第である。


これまでの人生で特にエネルギーを消費したのは、「中学校の学校生活」「大学受験」 「新卒で勤めた会社の仕事」

さて、私の「頑張れる総量」を「100」としよう。

私の通っていた中学校は荒れに荒れていたので、まず学校に行くだけで消耗した。毎日お腹が痛くて、身体に酸素が入らない。ツライ気持ちを理解してくれる人もいなかった。でも、頑張って 頑張って、それはそれは頑張って、学校に行った。ここで、頑張れる量の「30」を使用。

小さい頃から物語を書くことが好きだった私の夢は、作家だった。文芸創作の勉強ができる 大学に進学したいと考えていたので、先生の勧めで早稲田大学を第一志望に猛勉強。しかし、1日12時間勉強するも、不合格。頑張れる量の「20」を使用。

新卒の時に勤めた会社は、教育系の広告代理店。制作の仕事がしたくて入社した会社なのに、なぜか事務職に配属される。朝6時〜夜10時まで休みなく働き、土曜日も出勤していたから、 月に休みは4日だけ。頑張れる量の「40」を使用。


広告代理店を退職したのは、今から3年前、24歳の夏。

つまり、24歳の時点で、自分の頑張れる総量「100」のうち、「90」を使用してしまっていることになる。

人生100年時代、この後何十年も生きる(かもしれない)のに!!



いやなこと・苦手なことを頑張ろうとする時、好きなことを頑張ろうとする時よりも多くのエネルギーを消費する。行きたくない学校に行く。希望ではない仕事をする。体力が落ちているのに頑張ろうとするのも、そうだ。睡眠時間が足りてないのに勉強する、休みを返上して働く、とか。

もし、全部ポジティブな気持ちで頑張れていたらなら、心身ともにヘルシーな状態で頑張ることができたなら、消費量は半分くらいで事足りていたのかもしれない。半分は言い過ぎだとしても、「適量」で、必要以上に消費することはなかったのではないだろうか。


これまでの人生で、「もう頑張るのやめたい」「もうこれ以上は頑張れない」と思う瞬間が幾度もあった。「頑張れる量メーター」がぎりぎりまで下がって、ピコンピコンと音を立てて点滅する。

志望大学に落っこちた時、浪人する程頑張れる力がなかった。前の会社を辞めて、今の会社にライターとして転職した時だって、口では「頑張る」と言っていたけれど、本音は「頑張れない」だった。もうだいぶ疲れてしまっていた。やっと、憧れていた書く仕事ができるっていうのに、頑張れる量が残っていなかった。



——......って、そもそもこの「頑張れる量」の話は妄想であって、私が頑張れないことに対しての都合の良い言い訳に過ぎないのかもしれないのだけど......笑

でも、もし本当に、人生のうちで「頑張れる量」が決まっているのだとしたら、心から頑張りたいと思う時、「ここぞ!!」っていう時に使いたいと思わないだろうか??

だって「ここぞ」っていう時に、力が残っていなかったら?
生きてきた意味なくない??

まあ、それが 1年後か、3年後か、何年後にくるかは、誰にもわからないのだけれど。



高校生の時、「私の頑張り時じゃない」と思って、1年で部活を辞めた。

私の入った部活はインターハイの参加常連校で、チームメイトは部活に青春を捧げていた。 朝練、授業が終わって部活、夜練、土日も練習......そんな部活三昧の日々を過ごす中で、違和感が少しずつ募っていった。

中学生の頃から書き続けていた物語が、忙しくて書けない。24時間勉強と部活に拘束されて、私の「書く時間」はなくなった。

作家を志していたこともあり、文章が書けないのが何よりも苦しかった。「私が頑張りたいことってなんだっけ?」と胸に手をあててよく考えた結果だった。インターハイに行くことよりも、ひとつでも多く勝つことよりも、私は文章を書くことを頑張りたかったから。だから、部活を辞めた。

1年間で部活のために使用した「頑張れる量」は全体の「5」くらい。もし3年間続けていたら、単純計算で「15」程度使っていただろう。そう考えると、「10」は将来のために温存できたことになるのかな。



「頑張ること」は悪いことではないし、「頑張れる量が決まっているから怠けた方が良いよ」ということが書きたいのではない。それに、災害の多い日本で、テクノロジーがどんどん進化するこの世界で、未来を予測して「頑張れる量」をセーブするのは、正直むずかしい。目の前のことに、常に全力で取り組みたい人もいるだろう。

だけども、だ。

永遠に頑張り続けてしまう人は、「人生で頑張れる量は決まっている(かもしれない)」と頭の片隅にアイデアとして置いてみていただけないだろうか。


もし、人生で頑張れる量が決まっているとしたら?
今ここで、本当に「これ」を頑張りたいのだろうか?
「これ」にこんなにエネルギーを費やしてしまっていいのか?
私が本当に頑張りたいことって、なんだったっけ??


あなたの頑張りを「頑張っている」「怠けている」「頑張っていない」と勝手にジャッジする人もいるかもしれないけれど、誰かがその人の尺度で「頑張っいている/頑張っていない」を決めつけるのは、筋違いだから、気にしなくていい。

頑張り「すぎる」のじゃなくて、
その時の自分にとって「適量」の頑張りを。

じゃないと、
本当に自分が頑張りたいと思う時に、
なんにも頑張れなくなってしまうよ。




★頑張る量「30」を費やした中学校の時のエピソード


★頑張る量「20」を費やした大学受験のエピソード


★頑張る量「40」を費やした新卒で勤めた会社のエピソード


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