自己表現を超えて ~ 30歳になった地方演劇人の演劇に対する心境5
私は、今までは、「こんなこと考えてます。こんなこと思いつきました。みなさんはどうですか?」みたいな感じで、言ってみれば自己表現の形で演劇を創作していたんじゃないかと思う。
運が良ければ、観客がそれに共感し、動員もどんどん伸びていったりする。
それはある程度成功したともいえるし失敗したともいえる。
いずれにしろ、ただ自己表現するだけで4,000円のチケットを2,500人に売れるかと言うと、それはやはり難しいと思う。
知らない人たちから拍手喝采を浴びるには、なんとなく劇場にやってきた人に「これは素晴らしい作品だ」と感じさせる何かがないといけないだろう。
もちろん「これは俺の芸術だ。わかるやつだけわかればいい。」という考え方もありうるわけだが、これは一歩間違えると、とんでもなくクオリティの低い作品をつくったときにも同じ言い訳ができてしまうので、その危険性は認識しておかないといけないだろう。
知らない大勢の人から拍手喝采を浴びるためには、多くの人が感じうる、または理解しうる、そして感嘆するようなものがないといけないだろう。(ただの娯楽作品は置いておく。)
それはつまるところ、人間とはなんだろうとか、社会ってなんだろうとか、生きるってなんだろうというところに落ち着いていく気がする。そしてそれにはまず圧倒的に知識があった方がいいし、さまざまな考え方を知っていた方がいいだろう。
今まで「私という個人」の範囲で考えていたものを、「社会と個人」とか「普遍性のある個人」とか、もっと広い視点でとらえることが必要になってくるだろう。
そんなことを考えながら創作をしていこうと考えていた今年、この状況である。
恐らくほとんどの団体は、上演すれば赤字が見えていて、上演中止になった日には目も当てられない状況のはずだ。劇場の座席も自主的に減らしている状態であり、そもそもこの環境で観客も観劇を控えているのが現状である。
今までは多くの団体が、なんとか収支トントン、赤字になったらちょっと持ち出しになるなぁ、くらいのレベルでやっていたのだと思うが、上演するたびに深めの傷を負うという笑えない状況になってしまったと思う。(ただ、助成金なども出ているので、なんとかそれを活用して活動を継続している団体もある)
感染が不安で、活動も控える俳優もいるだろう。
そして常に、「その活動はリスクをとってまでやるようなことなのか?」と問われている気がしてしまって、いちいちストレスがかかる。
現在、東京・大阪の感染状況はとんでもないことになっており、北海道の新規感染者数は減少傾向にあるものの、病床は埋まってきており、2月にかけてまた増えていくんだろうなと思っている。
自分がかかって死ぬ可能性は比較的低めなのだろうが、後遺症はけっこうな割合で起こるようで、疲れやすい、息切れしやすい、などなどの症状が出るようだ。
結局のところ何が正解かなんてのはわからないし、自分で判断していかなければならない。
今の状態で上演をあきらめれば、きっと今後1年か2年か、あるいはそれ以上か、上演できなくなるだろう。
感染対策を万全にして上演する団体もある。
全団体が上演をあきらめるとなれば、
札幌は演劇のない街になるかもしれない。
感染症のことなど何も気にせず上演できる日はいつ来るのだろうか。
それまではなんとか生き延びなければならない。
本当に取り留めのない文章になってしまった
最後まで読んでくれた人がいるかどうかはわからないけれど、ありがとう。
小佐部明広
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