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205号室に暮らした

#水


アパートの向かいには小さな食堂があって、いつも大学生でにぎわっていた。バイパス沿いということもあり、トラックの運ちゃんやいかにも力仕事をしていますという作業服を着たガタイの良い若者も多い。テーブル二つとカウンター、小上がりにもテーブル二つ。店の中には始終AMラジオがかかって、夏の暑い日は甲子園の中継がアパートまで聞こえてくる。

ある日のこと。授業も午後からであるし、ぼんやりと昼間の食堂を眺めていた。出前のバイクがせわしく出入りしている。陽射しの強いこの日は、食堂脇の自販機がよく稼働した。コカ・コーラの赤い自販機から、釣銭が落ちる音がよく響く。と、その時だった。

L字型のアパートの食堂に近い配管から、ばッと水が噴き出たのである。気のせいだろうか、と最初は思った。というのも、水が出たのは一瞬のことで、その後はなんてこともない。だが、配管の周りには水が散らばった跡がある。一体なんだろう。昨日の雨のせいで、雨樋から水が落ちたのだろうか。だが、あまりに一瞬のことだったので、大して気にも止めず、数日が過ぎた。

その数日は暑さが続き、雨さえも降らなかった。乾き切ったアスファルトに陽炎が立つ。年々暑さが増しているように思う。道端の草がずいぶん伸びて、歩道を占拠している。いつものように帰途につき、ようやくアパートの階段を上ろうという時だ。

例の配管の周りだけ、濡れているではないか。ばッと水が噴き出た、あれは見間違いではなかったのだ。

しかし、これは一体何の水なのだろうか。どこから漏れているのだろうか。見上げると配管は二階の隅の部屋から伸びている。確かこの部屋には中年の男がひとり暮らしをしている。日中は仕事に出ているのか、帰りも遅いようだし、ほとんど顔を合わせたことがない。そう思ったら、自分とは関係ない気もして、そのまま階段を上った。

それからまたしばらく日が経った。ある日の夜、20時を回った頃だ。二階の隅の部屋を訪ねる男の声が聞こえた。どうやらNHKの集金らしい。しばらく部屋の前に居座っていたが、出てこないのか諦めて階段を下りていった。この頃はよく集金人が来た。引っ越してきたばかりの時、ポストにNHKの督促状が入っていてたまげた。宛名が前の住人のままで、留学生だったのか、外国人らしき名前がカタカナで書いてあった。夜遅く、階段を上る音がしたかと思うと、たいていこの集金人であった。

隅の部屋は本当に留守だったようで、しばらくして男が帰ってきたようだ。そして、また例の水が噴き出し、落ちる音が聞こえたのである。どうもここの住人が水を使うと水が漏れ出てくるようなのだが、それが何なのか突き止めようもない。そして厄介なことに、水を使っている当人は、水が噴き出るのを目撃出来ない訳だから、そのことにさえ気付きようがない。とすれば、大家に連絡するのはこちらということになる。

翌日、面倒なものを見てしまったなと、それでも気になって窓の外を眺めていた。食堂は開店準備なのか、調理服のおじさんが店の前を掃除している。と、その時だ。再び水がばッと噴き出た。食堂のおじさんが目を丸くして、なんだとばかりに配管の辺りを眺めている。そうして、そそくさと店の中に入り、と思ったらしばらくしてまた表に出てきた。奥さんも一緒である。片手には長い棒を持っている。ふたりで何か話しながら、例の配管を指さしている。そして、狙いを定めたように長い棒を配管目掛けて突き上げ、ピタリと水を止めたのである。どうやら配管がずれていたのを、棒で修復したらしい。

その後、水が漏れることもなく過ぎていったのだが、この配管が何であったのか、そもそもここに剝き出しにあっていいものなのか、疑問は尽きなかった。

男は何も知らず、相変わらず朝早く家を出て、夜は遅く帰ってきた。ある日のこと、一台のセダンが停まり、後部座席から小学生くらいの女の子が出てきた。運転席には中年の女が座っている。女の子だけが階段を上り、隅の部屋の呼び鈴を押した。その間、女は運転席を離れず、女の子を見守るようにしていた。何度か鳴らしても、ドアが開くことはなかった。諦めるようにして、女の子は階段を下りた。その親子を見かけたのは、後にも先にもこの時だけだった。


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