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雑居ビルを眺めながら 11

 アーケードから外れるように階段を下り、地下道を通り抜けると、ぽっかりと開けた空間に出る。中庭のような場所。次は階段を上る。そうしてようやく店に辿り着く。まさに隠れ家。近くまで来た時は必ず立ち寄るようにしていたのに、ずいぶんと足が遠のいていたことに気付く。

 このカフェには本がない。本店には本棚がいくつかあって、窓際やカウンターにも本が並んでいた。表紙の擦れた村上春樹や江國香織。背表紙が日に焼けたカーサブルータス。だがコロナ禍に閉店してしまったから、今は時折思い出すことしか出来ない。本店の記憶を留め置くようにアンビエントな曲がかかるこの空間は、テーブルと椅子だけが並び、だがそれは理路整然としながらどこか温かさを保っている。座っていると、思考が整えられていくから不思議だ。

 窓の外にはアーケードを犇めくビルの壁。蔦の葉が這うのを辿っていくと、小さな空が臨める。注文を終えると、鞄から本を取り出し開く。栞、付箋紙。己の痕跡を多分に残すその本を開けば、何事もなかったかのように思考は立ち上がっていく。

 それにしても店にある本というのは不思議だ。そこにあるというだけで誰かが手にし、捲られていく。突然の出会いであることにも気づかずに。そして、運ばれて来たコーヒーによって本はあっけなく閉じられて、元の棚へ戻っていく。偶然手にした人の手垢だけが堆積していく。紙の縒れ、折れ目は時間のしるしのようにして。どんな文字が読まれ、誰の心に留め置かれただろう。そういえば本店は、煙草を吸う人がいたことを思い出す。あの煙りのようにぼんやりと思い出され、消えていくもの。

 もう閉じられた空間と目の前に開かれている景色。今捲っていく本の頁とともにそれさえも思い出になる日は来るだろう。コーヒーが運ばれてきて、本を鞄の奥にしまい込む。この空間を閉じ込めるようにして。

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