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205号室に暮らした

#イノセントワールド


ある晩のことだ。眠っていると突然、ドン、と響く音がして咄嗟に地震かと思い飛び起きた。アパート全体が揺れるような地鳴りのような音。なにかと思えばまた、ダダダダダッと響く。地震ではない。窓を開けようとしたら、大きな声が響いた。「おまえ、ふっざけんじゃねえぞ」と、女の声である。これは大変なことに違いない。カーテン越しに覗くと、女がドアを蹴っている。L字型のアパート。斜め下、101号室。女の怒号が続く。「人のこと働かせやがってよお、入れろよこの野郎っ」とどうやら喧嘩らしいのだ。壁の薄いボロアパートである。全住民がこの事態に気づいているはずだが誰一人出てこない。来るはずもない。しかしいざとなれば警察を呼ばなくてはいけないだろうか。怒号が夜の静寂にひたすら響く。

大学時代、ひどいアパートに住んでいた。内見のとき、「網戸をつけてください」と頼んだのに結局つけてもらえず、何も通されない外側の窓のレールには、砂埃が溜まるばかり。暖かくなると、ベランダにはスズメバチが巣を作りに来るのも厄介だった。うかつに窓を開け放っていると、いつのまにか部屋に紛れ込んだ蜂と戦わなくてはならない。それで、殺虫剤が手放せなくなった。やたら大きな蜘蛛やゴキブリも出るので、なおのことだった。

築三十年は経っていたのではないかと思う。ドアはガタついて閉まらないし、天井と壁のつなぎ目や壁と窓枠の間、あらゆるところが隙間だらけだった。歩けば当然、床が軋む。階下の住人の声も隣の住人の声も筒抜け。2LDKで家賃4万なんだから、それはそうだろう。何もずっと住むわけではないし、とはいえ、快適とは程遠い暮らしに大学生といえど、ずいぶん滅入った。

住人もちょっと変わった人が多かった。基本、階段などですれ違えば挨拶くらいはしても、それ以上関わることもないのだが、なんせ壁が薄く筒抜けの部屋なのだから、知りたくなくてもなにかしら聞こえてきてしまうので、おのずと互いの素性が分かってしまうのである。訳ありですぐに越してしまったという人も少なくはないのだが、暖かい雨の降る夏の初めのこと。

101号室に若い男の子が越してきた。てっきり大学生なのかと思っていたのだが、どうもフリーターのようだ。自転車で出かけるのをよく見かけた。そのうち女の子も越してきて、一緒に住むようになった。ふたりで昔流行ったバンドの歌をうたうのがよく聞こえてきた。仲睦まじくていいですねえと思っていたその数か月後のことだ。

男の子がいない隙を狙って、女の子がほかの男を部屋に招き始めたのである。窓が開いてますよ。聞きたくなくても甘ったるい声が聞こえてくるのだから、何とも言えず、そうこうしているうちに、歯ブラシがどうのとかいう怒号が聞こえ、男の子にばれた。事の顛末は予想通り、と書きたいところだが、もう一波乱。冒頭の喧嘩が勃発したのである。

内情は知る由もない。もつれた糸が絡まっただけのこと。数日後、女の子は荷物を運び出ていき、数か月後、男の子は身なりを整え、朝早く出勤していく様を見かけた。

さらに数か月後、そこは空き部屋になった。暖かい雨の降る夏の初めのことだった。駐輪場に男の子の自転車だけが置き去りになっていた。


付記

この数か月、厭世観に囚われて、昔のことばかり思い出していた。大学時代に過ごしたアパートのことを夜中に突然思い出し、どういう訳かなかなか頭から離れてくれず、いっそのこと文字に起こしてみることにした。普段はこういうものは書かない。だから期間限定、とりあえず3話は続けてみようか。なお、プライバシーに関わる部分は、内容を少し変更している。

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