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雑居ビルを眺めながら 8

窓の外に煤けたビルがある。多くが空き部屋なのか、人の気配はない。午後の光が部屋の奥を照らして、壁紙が剥がれ落ちているのが見える。別の部屋にはカーテンがかかって、中の様子は伺い知れない。一階は商業施設になっているはずだが、アーケード側からは屋根に塞がれてビルの全貌を見ることは出来ない。普段は目に入ることもない景色を眺めながら今、コーヒーを飲んでいる。まるで網をかいくぐったように在るカフェの窓。ここからは、ビルの裏の顔ばかりが見える。


美しいものを表とし、隠されたものを裏という。その感覚に慣れ過ぎている。だが表と裏とは考えれば考えるほど答えが出ない。便宜上の線引きと考えれば気が楽だろうか。と子どもじみたことを考える。表があれば裏がある。何の変哲もない。でも本当に? と、どこか疑ってしまう。


コーヒーを飲みながら、煤けた窓を見ている。店内にはアンビエント・ミュージック。窓の外に目をやり、表を裏にして、裏を表にして、を繰り返す。裏の顔が本当の顔なのだろうか。もしそうならば、と頭の中で何かを解体して、再び組み立てようとする。煤けたビルを眺めながら、街の形をひっくり返すようにして。だが待てよ、とここまで来て思う。裏の顔に今更気がつくなんて、自分が世間知らずなだけではないだろうか。今まで何を見ていたのだろう。少しがっかりしてしまう。ぼんやりと街を歩いていたのかもしれない。裏通りだって素通りしていたようなものなのかもしれない。きれいなものだけを見たがるようにして。


机に座り、SNSを眺め、そこから見える景色を世界と名付けた。でもそれは半分は正解で、半分は間違っているだろう。iPhone越しに見える風景。誰かと話すことだって出来る。人と出会うことも出来る。世界で起こったことが知れてしまう。でも、切り取られたものだけを見て、そこからしか始められないことが悲しい。


そこから始めることは、だが一方では正しいことなのだ。社会の縮図。でもなぜだろう。iPhone越しの景色は断片しか投げかけていないのに、受け手はそれをすべてだと思ってしまう。自分の認識を越えられない。それだけが答えのような感覚。他者の立ち位置を確認できない。呼吸が分からない。そう思うことは多い。同じシチュエーションを前提として始められていると思ってしまう。時折、人々が束のように見えることがある。こういう時は要注意だ。自分の目が試されている。


おそらくそこにはバラバラなものがあるだけなのだ。同じ時間に、同じ空間に。でもそれだって、見ている者が頭の中でバランスを取って配置している世界に過ぎないのかもしれない。他人の時間も、空間も伺い知れない。であるからこそ、混ざり合っていく。それがすべてではないという前提において、世界は裏返っていくのだ。


そうして窓の外を見ている。空は今にも降りそうな鈍色だ。やがて雨が降れば、人々は傘を差すだろう。本降りになれば、みな濡れないように同じ姿勢を取るほかない。傘の群れ。そんな景色を眺めながら、街を覆う傘を束にして、蹴散らしたいと思うだろうか。束にしようとする目こそ警戒すべきものと思う。


窓の外には煤けたビルが建っていて、雨の当たらない部屋にひとり腰掛け「さびしい」と思う幻。

世界はどこかではなく、目の前に、ただ開けている。

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