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サッカー部の同級生が「おい、黒いの!」と言われ学校やめた話

 少年時代の記憶に、こびりついて消えないものがいくつかある。ここ最近BLM(Black Lives Matter)運動の隆盛を眺めていると、そのうちの一つが改めて、じわじわと蘇ってきた。ことあるごとに少しずつ思い出すエピソードなので、自分にとって割と大切な記憶なのだと思う。今ここに書き残しておく。

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 僕は物心ついた時から白黒のボールを追っていた。いわゆるサッカー少年だった。おそらく父の趣味が影響し、自然とそうなった。小学校から高校まで一貫してサッカー部に所属していた。
 その中で何よりも忘れられないのは、自分のファインプレーに聞こえてきた黄色い歓声でも、PKを外した時に見上げた青い空でもない。「黒い」と差別され、悲しそうに去っていった彼らのことだ。

日系ブラジル人の存在

 僕の故郷は当時、日本国内で日系ブラジル人が最も多く暮らす地域の一つだった。

 日系ブラジル人とは、かつて日本からブラジルへと渡った移民の子孫だ。1990年の改正入管法施行によって三世までのビザが緩和されたのを機に、日本に渡ってくる人が飛躍的に増えた。目的はいわゆる「出稼ぎ」だ。

 僕の生まれ育った地域に日系ブラジル人が多かったのは、付近で自動車関連を中心とした工業が盛んだったからだろう。日本の"モーターシティ"エリアだった、と書けばどこだか大体わかってしまう。そんな一帯のはずれに集まって居着いた、というところか。

 特に、僕の校区では大きな団地を中心に、いくつか彼らのコミュニティがあったようだ。地域には日系ブラジル人向けの飲食店や雑貨店があり、学校では、クラスに必ず数人の日系ブラジル人がいた。1990年代に物心がついた僕の世代にとって、あの地域では、彼らの存在は所与だった。

 クラスにいる彼らの大半は、日本語のネイティブスピーカーではなく、周りの日本人の子どもと満足にコミュニケーションを取れていたとは言い難い。今はまた事情が違いそうだが、1990年代当時はそうだった。

 ともかく、日本人の子どもたちが作る友人グループには入れないことが多く、日系ブラジル人同士でつるんでいた。

サッカーだけが接点

 唯一の例外、接点はサッカーだった。

 彼らはサッカーが好きだった。好きだったし、うまかった。偏見と言われようが、うまかったのだ。特に足もとのボールさばきの巧みさには、いつも驚いた。おそらくブラジルにいた際に、幼い頃から、街角の狭いエリアやビーチでボール遊びをしていたからだと思う。

 サッカーはすごい。サッカーを媒介とすることで、普段は交わらない日本人と日系ブラジル人の子ども同士が、自然と交流していった。教室では完全に別グループだが、サッカーは一緒にプレーする仲。学校の昼休み、放課後、休みの日も、グラウンドに三々五々集まり、人種国籍関係なく混成チームで普通に遊んでいた。

 中学に上がると、少年たちは思春期に突入する。思春期になると、男の子は攻撃的になり、また過剰な自意識が芽生える。アイデンティティにも悩むころだ。気楽な小学生時代とは違ってきた。日本人の生徒と日系ブラジル人の生徒の間で、見えない溝が深まっていく感覚があった。

 日系ブラジル人生徒は日に日に、教室で過ごしにくそうになっていった。そのうちポツポツと学校をやめ、「ブラジル人学校に行くらしい」という話をよく聞いた。勉強するにしろ恋愛するにしろ、それはそれで選択肢なのだろうと思った。

 それでも、僕の所属する中学サッカー部には、3人ほどの日系ブラジル人生徒がなお参加していた。

「黒い」とニヤニヤしながら先輩が言った

 「人種のるつぼ」と言われるブラジルの人種事情に当時の僕らは明るいわけではなかったし、今も詳しいとは言えない。端的に言うと、彼ら彼女らの肌の色はまちまちだった。サッカー部の日系ブラジル人3人のうち、最も体格がよくサッカーも上手だったのがD君だった。そして彼だけ肌の色が、他の二人とは違い、黒かった。

 黒かった、とすら当時の僕たちは思っていなかったはずだ。少なくとも僕は、D君を「黒い人」というカテゴリーでは捉えていなかった。それが良いか悪いか、いまだにわからない。

 日系ブラジル人コミュニティの存在は当然そこにあるものとして認識していた一方、人種の混血具合まであまり気にしていなかった、というのが正直なところだ。あくまで、近くて遠い他者としての「彼ら日系ブラジル人」グループの一員であり、サッカーで混じり合う奇妙な隣人だった。

 ある夕方のグラウンドだった。

 練習も終わりかけのころ、誰かがキックを失敗し、ボールがかなり遠くまで飛んで行った。見ると、そちら方面に、偶然D君がいた。

 1学年上の先輩が何か呼びかけようとしている。「ボールをこっちに蹴り返してくれ」という趣旨を伝えるのだろうと思っていたら、急にこんな声が聞こえてきた。

「おい、おい。黒いの。黒いの。ボールこっちに蹴れよ。黒!黒!」

 大声で叫ぶ先輩の表情を見ると、彼は、ニヤニヤしていた。彼はまた叫び終わる頃、僕たち後輩の方を見回しながらもっとニヤニヤして、小さな声で「黒、黒」とボソボソ言った。

 ここで僕が、あるいは僕たちがどう行動したのか、記憶が定かではない。ある種のトラウマのようで、記憶にはいびつな蓋が嵌められているようだ。きれいに開いて思い出そうとしても、何か複雑な噛み合わせが邪魔をするのだ。

 おそらく確かなことは三つ言える。一、僕ら、少なくとも僕は、それをあからさまな差別だと感じ、ドン引きしたということ。二、そして、決して先輩には加担しなかったということ。三、しかし僕は、先輩をたしなめることもしなかった、ということ。

翌日から来なくなった、という記憶

 ここに書いているのは十数年前の話だ。細部の記憶は定かではない。そして記憶など、しょせんは都合よく・・・あるいは都合悪く、書き換えられることもあるだろう。そう自覚しつつも、あくまで記憶に基づいて語り続けてみよう。

 記憶によれば、僕たちはD君のところへ行き、何らかの励ますような声を掛けたはずた。しかしD君はうつむきながら、とぼとぼと着替えスペースまで歩いていき、練習用ソックスを脱いで、そそくさと帰り支度をした。D君はカタコトの日本語を話すことができたが、このときは、意味を為すような返事をしなかったと思う。

 その後D君がどんなふうに帰ったか覚えていない。自分もチームメイトと何か話したのだったか、あまりはっきりしない。

 どうあれ翌日から、D君は練習に来なくなった。他の日系ブラジル人たちもすぐに来なくなった。やがて教室から、学校からもいなくなった。

 わからない。D君にそもそも、あの声は聞こえていたのか。あの声にショックを受けたり、怒りを覚えたりして、いなくなってしまったのか。それとも、そもそもいなくなるつもりだったのか。きっかけに過ぎないのか。きっかけですらなく、もっと別のことや、日常生活のレベルに動機があったのか。そもそも日本の学校で過ごすのは限界だったかもしれない。そう考えれば、その後おそらくブラジル人学校へ行ったことは、彼の人生にとってはベターな、幸福な選択だったのだろうか。

 彼のその後を知らないし、僕には何もわからない。僕は僕の中に残った感情についてだけはっきり言える。やりきれない思い、後悔、怒り、反省そして罪悪感が、いつまでも僕の中に残っているのだ。十数年消えなかったこの感情は、きっと生涯、消えそうにない。

 この話には、蛇足にしか思えない続きもある。おかしなことだが、今思うと僕は無意識に、その先輩に復讐したかったのかもしれない。というのは、先輩と同じポジションであるセンターバックを希望し、その後一時期、僕は先輩からレギュラーを奪ったから。彼が引退する三年の夏まで、僕はポジションを争い続け、彼をおびやかした。そんなこと、何の復讐にも、贖罪にもならないと知ってはいるけれど。

当事者性 / こんなこと書いていいのか

 結論もないもない文章になってしまった。

 そもそも、当事者性を欠いた僕がこんなことを書くべきではないのかも、と思う。影響力を持ち得ない記事だとしても、誰かの目には触れるわけだ。いわゆる黒人生徒への差別の文言を、こんな形で文字起こしすること自体、誰かの嫌な思い出の傷に、塩を塗ることになりうる。そう思うと落ち着かない。しかし書かざるを得なかった。

 最後に。僕のプロフィールを偶然読み込んだ人以外は、この話を、マジョリティである日本人(僕)から見た、マイノリティ外国人(日系ブラジル人)差別の話だと受け止めただろう。ところが、僕は僕でまた、日本人ではない。

 僕は在日韓国人4世というマイノリティだ。日系ブラジル人とはまた違うマイノリティとして育った。

 だから本当は、在日コリアンとしての自意識と明確に絡めた上で、このストーリーは語られるべきだ。本当のストーリーを語るためには、その二重性を排除できない。その二重性があるからこそ、強くこびりついて消えない記憶なのだと思う。しかしそうやって語り直すのは、とても骨が折れそうで、ここからの追記では手に負えない。それを書くとすれば、日系ブラジル人不良グループとの路上喧嘩や、彼らがいつも持っていたバタフライナイフの光沢、フィリピンパブ、そしてパチンコや焼肉が絡んでくるだろう。うまく書ける気がしないが、そのうち別稿として記事にしようと思う。

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