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痴漢の冤罪事件はなぜ減らないか?

朝夕の通勤ラッシュなど満員電車における痴漢にまつわる事件が後を絶ちません。そして、同時に冤罪事件も増えつつあります。

一方的に第三者が性的な加害を与えるような行為は断じて許されないのはいうまでもありませんが、これだけ国や関連団体なども周知啓蒙を推進しているのに、おぞましい痴漢行為が撲滅できないのはなぜでしょうか。なおかつ、その冤罪事件も社会問題になるくらいに蔓延しているのはなぜでしょうか。



女性目線で痴漢の被害を防ぐための取り組みは、さまざまな観点から進められています。できるかぎり一人で行動しない。毎日同じ時刻に同じ車両で移動しない。なるべく男性から離れて乗車する。違和感を感じたら躊躇なく声をあげる。監視カメラや駅員などの配置を意識して身を守る。すぐに会社や家族などに連絡をとれる態勢を常にとっておく。などなど。

いまは都市部のみならず日本中の公共交通網は監視カメラだらけですから、公然と犯罪行為におよぶような動きがあれば、被害者が勇気を振り絞って声をあげることで、かなりの確率で検挙されるのは間違いないと思います。j警察や鉄道会社などが関わる取り組みは、全体としては効果をあげているように思います。



ひるがえって、男性の側にも不意に冤罪事件に巻き込まれないように注意する取り組みが広まりつつあります。女性目線の取り組みと逆の発想ですが、なるべく女性と距離をとって乗車する。混雑時には背中を向けたり、手を上にあげたり、カバンで距離をとるようにして、万が一にも誤解を与えない姿勢をとる。などなど。

さらには、万が一にも冤罪事件に巻き込まれた際のための賠償保険なども存在して、弁護士対応や金銭解決などを少しでも円滑にはかるためのリスク管理が目指されています。このような取り組みの数々からすれば、痴漢事件の撲滅に向かうのはもちろんのこと、冤罪事件も歴然と減少に向かうのが自然とも思われます。



にもかかわらず、どちらも減っていないどころか、むしろ増加しているのはなぜでしょうか。私はその理由のひとつは、古典的なジェンダーロールの拡大再生産にあると思っています。

男は男らしくなければならない、女は女らしくなければならない、という規範意識が強すぎると、男性はより攻撃的になり、女性はより受動的になります。これは持って生まれた気質というよりは、社会的に期待される役割に応えようとする中で培われる要素が強いのではないかと思います。



実際には、男性がつねに攻撃的に性的な思考をめぐらしているとはかぎりませんし、女性がつねに受動的な性的構図を想起しているともまったくかぎりません。これを、「生まれながらに男(女)はそういうものだ」という通念を社会的に共有しようという志向が強いと、人々の動きは本来の思惑や意思を離れて、無自覚のうちにそのベクトルを帯びてしまうのです。

圧倒的に多数派の男性たちは、当然のことながら犯罪めいた行為をしようとは思わないし、それどころか社会人としての自覚と品位をもってそうした不法な輩をできるかぎり社会から撲滅させたいと願っています。本来、社会の構図は、「美女と野獣」などではなく、人はジェンダーを超えてみな平等であり、それぞれに異なる個性を帯びているのです。



日本の街中での光景を見ていて思うのは、若者も中年も年配の集いも、ともかくも男性は男性ばかり、女性は女性ばかりが群れる傾向が強いということです。仕事上の事情や地域生活の実情を考慮しても、あたかも社会を「白組」と「紅組」にくっきりと分けるような絵はある意味不自然であり、逆に違和感の中で身構えるような構図が演出されることで、両者の間に高い壁をそびえさせているかのようです。

人間は不安な生き物です。だから、相手の心が見えないと怖いし、言葉を交わせないとなかなか接点を築けないものです。男女は異なる生き物だから、なるべく安易に触れ合わないことがお互いの共存共栄に資すると考える向きもありますが、おそらく真実はまったく逆なのであって、機械的に溝をつくえばつくるほど両者は縁遠く引き離され、誤解や軋轢の温床にもなるのです。



無理に女性専用車両を増やして物理的に痴漢行為を抑止しようという性悪説的な取り組みよりも、まわりが嫌気が指さない程度に仲睦まじいおしどり夫婦や、愛情が通じ合う関係真っただ中のカップル、はたまた微笑ましい母親と息子、もしくは父親と娘の愛情あふれる関係などが車内にあふれる性善説的な構図に信頼をおいた方が、もしかしたら犯罪行為や冤罪事件の撲滅に向けた有意な取り組みになりうるのではと考えるのは、私だけではないと思います。

人間には、文字通り多様な個性があります。必ずしも見た目どおりの人間なんて、一人もいません。小柄な女性が弱者の気質しか持っていないとは全然かぎらず、屈強な男性がけだもののような荒々しい気質の持ち主ともまったく分かりません。華奢な女性がすさまじいフィジカル能力を持っていることを目の当たりにし、どこからみてもどっしりしている男性が慈悲深い愛情に満ちあふれていることを知ったら、おぞましい犯罪の手は少しは抑えられるかもしれません。



古典的なジェンダーロールが、どこかで痴漢犯罪や冤罪事件とつながっている可能性。私は、少なくとも間接的な影響や風土的なものを含めれば、全体として看過できないものがあると思います。無理に男女をぎこちなく引き離すのではなく、より自然に人間的なコミュニケーションをとる志向を持っていった方が、結果として犯罪の温床は少しでも抑制されるはず。

男女の本源的な役割や機能の違いはそれとして、少なくとも社会的なふれあいとしてはどこまでも同じ人間として仲良く支え合っていく構図を旨としていく。このシンプルな通いあいの積み重ねが、男女が笑顔で向き合うエネルギーを昇華させて、犯罪も冤罪も撲滅に向かう時代を引き寄せると願ってやみません。

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多様性を考える

学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。