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ルッキズムはすべてダメなのか?

ルッキズムの害悪が各方面から厳しく指弾され、ミスコンなどのコンテントも廃止され、地域や大学などでの同様のイベントも撤廃されるのが昨今の傾向です。

ルッキズムとは、「外見にもとづく差別」であり、特に「身体的に魅力的でないと考えられる人々を差別的に扱うこと」を指します(Wikipedia)。

もちろん、人間を見た目だけで判断したり、生まれながらの身体的特徴によって差別したり、制度などによってそのような方向を誘導することは、社会的にも大いに問題のある行為や価値観であり、さまざまな法令やその精神にも反することはいうまでもないと思います。

たとえば採用選考の場などにおいて、応募者をその容姿のみによって判断して選考することは明らかに公正選考の考え方に反するものであり、本人の資質や能力、経験や意欲などを考慮せず、その人の見た目のみを主観に基づいて判断するような選考は、特殊な事情があるケースを除いては、誰が考えても不合理極まりないといえるでしょう。



でも、ルッキズムは本当にすべてがダメなのでしょうか?
私は疑問が残ると思っています。

「見た目」とは、その人の容姿や体型のみならず、ファッションや着こなしはもちろん、表情や態度、場合によっては定性的な感覚である言葉づかいやオーラなども含むと考えられます。

同じ能力の人が、同じ仕事をしていたとしても、相手方(たとえばお客)の受け取り方や評価が変わるというのは、実際の経済社会では往々にしてあることです。単純に美人やイケメンが得をするというわけではなくて、同じような容姿の人が対応したとしても、相手への伝わり方は十人十色だったりします。

もちろん、それは経験やスキルの違いによって差が出ることもあるでしょうが、必ずしもそうとばかりとは限らず、人によって「感じがいい」「感じが悪い」といった評価軸が分かれることもあります。これらの評価要素の中には、広い意味での「見た目」が影響し作用している可能性は否定できないのではないでしょうか。



さらにいうならば、人間を「見た目」で判断することは、本当にすべて害悪なのでしょうか?

素直にいうならば、ほとんどの人間は、他人をまずは「見た目」で判断するのではないでしょうか。初めて相対するような場面では、相手方についての予備情報が乏しいことが多いから、「第一印象」に頼らざるを得ないのが本音なのではないでしょうか。

問題なのは、先ほど触れたような採用選考にあたって、事実上容姿による差別が行われるような場合であって、人間が人間を「見た目」で判断すること自体は、自然の摂理に近いものではないかと思います。

過剰な外見至上主義に走ってしまう弊害を社会全体として抑止しなければならないのはいうまでもないですが、だからといって、「見た目で判断すること」=許されないことだと決めつけるのは、明らかに行き過ぎた態度であり考え方です。



学校教育においても、ゆとり教育などの潮流の中で、子どもたちに「順番をつけること」が忌避される傾向が強まりました。小学校において徒競走をしても、あえて順位をつけずに「みんなが一等賞」という扱いをすることについては、さまざまな受け止めや考え方があります。学科科目の試験結果などの数字のみで成績を順位化するのは過剰な競争を誘発するから、それ以外の内申点などをしっかりと加味して全体評価をすべきといった発想も、これに近いかもしれません。

ところが、大人になって社会に出たら、ほとんどすべての物事について、順番がつけられ、好むと好まざるとに関わらず、競争社会の中に身を置くことになります。結果として、良いか悪いかはともかくとして、「足の速い人」「点数が高い人」「見た目がいい人」といったものの見方が飛び交うことになります。

人間の外観は生まれもってのものであり、本人の努力によっては変えられないから、運動や勉強などとは異なるという意見もあります。

でも、スポーツにしても生まれもっての資質や体格、運動能力には違いがあるし、学力にしても生まれもっての知的能力、思考能力にはやはり個体差がないとはいえないのではないでしょうか。

人間は機械やコンピューターではない以上、生まれながらにまったく平等、スタートラインが同じということはありえないのです。



最後に、個人的な意見を述べます。
ルッキズムが社会的に根っこから問題になるのは、セクシャリズムと結びついた場合だと思います。そして、現実社会では、このふたつはとても結びつきやすいのです。

ミスコンが大々的に推奨される世の中では、多くの男性は女性を性的な視点で外観で評価する傾向が強いし、またそうした傾向を間接的に後押ししている側面は否定できません。このメカニズムは、やはり大きな問題だと思います。

アフガニスタンで再びタリバン政権が復活したことで、多くのアフガンの女性たちが男性以上に恐怖心を覚えていますが、そうした恐怖はある社会的な規範によって性差別的なルッキズムが押し付けられることで深刻化していきます。

逆にいえば、こうした偏った意味でのルッキズムは、男性のライフスタイルや価値観も蝕み、生きづらさを感じる社会へと結びついてしまいがちです。人間にとって「見た目」はひとつのかけがえのない価値であり、個性の表現方法だと思いますが、それを前面に打ち出してアピールするのは女性にのみ許された特質であり、男性たるものそうした表現に関心を持つことは自らの男性性を貶めるものという規範が強く働くからです。

しかし、世の中には、実にさまざまな男性がいるし、また女性が存在します。自らの身体性や美的表現を高めたい、それによって自分自分を対外的に評価されたいと望むのは、必ずしも女性のみとは限らず、男性も含まれます。それは、女性だからといってファッションやメイクが大好きとは限らず、その人その人によって価値観が異なるのと同じです。



ルッキズムはすべてダメなのか?

私は、男性だからといっておしなべて女性を外観で判断する側の列に並ぶのではなくて、自らの身体性や美的表現において評価されたいと希望する人が増えれば、その弊害は結果的に随分と希釈されていき、最終的には相応のバランスを保てる時代がくるのではないかと仮説します。

「男のくせにファッションとか見た目にこだわるのはみっともない」
「男の本能として女性を見た目で判断するのはしょうがない」

こうした偏った価値観が平準化されたとき、ルッキズムの本質があらためて冷静に問われる場面が訪れるような気がします。

学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。