見出し画像

同じ人間なのにアイテムが違う不思議。

夏のファッションを感じる季節

5月になって夏の暑さを感じる日が出てきました。
引きこもりの日々だった人も多いと思いますが、テレワークや在宅勤務も夏の日差しを感じると辛いですよね。

少しずつ外出できる環境が近づいてきたと思いますが、人間は禁止されたり制約を受けるとかえってその反動があるといいますから、今年の夏のリゾートや歓楽街はもしかしたらごったがいかもしれません。

それはともかく、夏を感じるとやはりファッションに目がいきます。
きらめく日光を受けて真夏の暑さに包まれると、開放感とともに適度に肌を露出して、行動力がみなぎる原色系のアイテムなんかを身につけたくなるのが人情ですよね。

私もネットで夏のアイテムを目にすると、ついつい想像力を膨らませてポチポチと購入してしまいます。
ファッションは季節の取り入れが命ですし、あれこれ迷ったりコーデを考えることも含めてファッションですから、仕方がないですよね。

画像1

ここまで違うアイテムの不思議

日中、30度に近づく日が出てくると、街ゆく人も夏の装いに近づきます。七分や半袖のニットや夏らしい色彩のスカートやワイドパンツ、ノースリーブのワンピースにカーディガンといったスタイルが増えてきますね。

そんな中いつも不思議に思うのは、男性のファッションって冬服と夏服しかないのですね。

ビジネスマンであれば、冬はスーツにコートを着ますが、夏が近づいてもやっぱりスーツ。

クールビスといってもせいぜいネクタイを外したりシャツを変えたりするだけで、真夏でもジャケットを羽織ったりする。

ではカジュアルはどうかというと、冬はコートや革ジャンを着ますが、春秋はニットやシャツにジーンズやチノパンで、夏はTシャツになるくらい。やっぱりあまり変わらないですね。

暑がりの男性ですと5月くらいからTシャツ姿になったりしますが、見ていてあまり季節感を感じませんし、真夏になってもそのままだと思うと、やっぱり不思議ですよね。

かたや女性はといえば、ワンピースひとつとっても冬、春秋、夏で素材も色彩も変わり、スタイルも長袖、七分、半袖、ノースリーブ、さらにはシースルーやレース仕立てなど、さまざまなものがあります。

これがトップスとボトムスに分かれるとさらに多種多様で自由奔放な着こなしが考えられるので、おしゃれのセンスやポリシーによって組み合わせは無限大に広がるともいえます。

感度の高い人は2週間ごとにファッションのアイテムが変わるといいますから、無理もないことですよね。


物理的・歴史的・機能的な根拠はない?

同じ人間なのに、なぜここまでアイテムが違うのでしょうか?
子どものころから、私は疑問でした。

男性と女性とは、そもそも違う生き物だから。体格も違うし、骨格も違うし、肌質や動き方も違う。だから、服装が違うのは自然なことだし、アイテムが違うのは仕方がない。多くの人は、それこそ子どものころから、そう考えてきているのだと思います。

でも、物理的・理論的に考えると、やはり釈然としないところがあります。よくいわれることですが、男性と女性とでは体格も体力も異なりますが、いずれも根本的に異なるものではなくて、「個体差」がものすごく大きいです。

だから、身長にしても、体重にしても、運動能力にしても、もちろん最も下位の男性よりも最も上位の女性の方がはるかに高いです。あくまで平均ですから、身長も体重も女性の平均よりもはるかに小さい男性もいくらでもいます。

歴史的・文化的に考えても、やはり疑問は残ります。男性がスーツを着るのが当たり前というのは庶民においては戦後になってからのことで、それまでは男女問わず和装文化がまだまだ根強くありました。

スカートやワンピースはもっぱら女性のものという発想も、厳密にいえば普遍的なものではありません。スカートが発祥し発展した西欧ではもともとは男性も着用する衣装であり、ワンピースもアフリカの一部などでは男性も身に付けるれっきとした民族衣装です。

そして、機能的・技術的に考えると、ますます首をかしげることになります。秋冬は長袖一枚が快適にしても、暑い夏は半袖、もっと暑い真夏は日傘にノースリーブが過ごしやすいでしょうし、寒い冬はシャツにスーツではなくニットやセーターを重ね着した方が暖かいですし、さらに寒い真冬はロングブーツにニット帽、マフラーに手袋がふさわしいですね。


本質は社会的役割分担・意識の問題

では、女性よりもアイテムが少ない男性は、「気の毒」で「かわいそう」なのでしょうか。

私はそうは思いませんし、社会的にもそのようには認識されていないでしょう。なぜでしょうか?

それは男性はそういった“制約”をともなうことでかえって享受しているメリットがあるからでしょう。

逆に女性はある程度の“自由”を手にしているように思える反面、社会的・経済的地位においては、悲しいかな男性よりも不利な立場におかれているのが一般的です。この2つのことは、根底ではしっかりとつながっているのです。

だから、男性は男性としての服装や習慣にあくまで執着しようとする傾向が強く、それは幼少期からの子育てや教育にも色濃くみられます。逆に、女性は自らの立場や地位、取り巻く環境の変化に応じて、柔軟にドレスコードを変えて生きていきます。

これも生まれもっての資質というよりは、幼少期からそのように生きることを刷り込まれている要素が大きいといえるでしょう。

なぜ同じ人間でありながらここまでアイテムが違うのか?

それは表面的にはドレスコードやファッションの問題ですが、本質的には社会的な役割分担や役割意識の問題なのです。

男女平等、女性活躍推進を高邁な理念に掲げる知識人や文化人の方は数多いですが、残念ながら根底でしっかりと結びついている2つを明確に意識して発信したり表現したりしている方はきわめて少数派だと思います。

なぜ、男女平等がなかなか実現しないのか?
なぜ、男女でここまでアイテムが違うのか?

この2つのことは、本質においては同じことをいっています。そういう論調や活動がもっともっと増えてくると力強いですよね。


自由なアイテムで男女平等を引き寄せよう

ある友人が、言いました。

「男とか女とか、年齢に関係なく、だれに遠慮もなく自由な服装が楽しめる時代が、もっと早く来たらいいね」

私は、答えました。

「時代を変えるのは、私たち一人ひとりの意思だよ。だから、堂々と自由に好きな格好したらいいと思う」


心から、そう思います。

ダイバーシティの時代といいますが、従来の役割意識に縛られずに自由なアイテムを身に付けることは、個人の尊重や個性の表現であるとともに、結果として男女平等や女性活躍推進を引き寄せる、社会的な動力の一部にもなり得るはずなのです。

たかがアイテム、されどアイテム。

男女を分断し、人為的な壁を作るのではなく、それぞれが「個人として」認め合い、助け合い、高め合っていく社会を目指したいものですね。

自分らしいアイテム、だれに遠慮なく身につけたいものです。

その向こうに、たくさんの人とつながる愛情があることを信じて。

学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。