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韓国の「国家フェミニズム」とジェンダー対立

お隣の韓国で文在寅政権の支持率が低迷して、ある種の政治的危機が近づいているという報道は最近しばしば耳にします。

韓国国内の政治的な路線対立や権力抗争の内情はともかくとして、この状況の一つの大きな要素として、韓国の「国家フェミニズム」が大きく関わっているといわれます。

国家フェミニズムとは、女性の権利や地位の向上を国の基本的な政策として国家主導で予算を投入して推進することをいいます。

女性の権利や地位向上を国の政策として推進すること自体はもちろん現在においては基本的に重要なスタンスですから、ある意味では日本もアメリカも国家フェミニズムの要素を持っているといえるでしょう。

韓国ではフェミニスト団体などが全国規模で急増し、メディアなどを通じて社会的な影響力が拡大していましたが、2017年の文政権の発足によってフェミニスト団体などのスローガンが国策に取り入れられるようになり、女性関連予算が急増しました。

このような政策転換は、出産や育児でキャリアを失った女性失業者などへの支援は手厚いが、さまざまな事情で職を失った男性失業者への支援はほぼ皆無といった大きな矛盾を生み出し、ジェンダー対立が深刻化しつつあります。

MeToo運動や脱コルセット運動の高まりによってあらゆる文化やメディアにおける女性差別や女性蔑視の表現が激しくバッシングされる一方、行き過ぎた国家フェミニズムに怒りや苛立ちを持つ男性たちによる「脱フェミニズム」の動きも本格化し、ジェンダーをめぐって社会が分断されています。

その具体的な表れが、4月のソウルと釜山のおける市長選挙にみられました。いずれもセクハラ事件による市長辞任を受けた補欠選挙でしたが、結果は与党候補の惨敗。文政権における国家フェミニズムに反発した若年層の男性の投票行動が、結果に大きく影響したといわれます。

韓国では男性に兵役義務が課されています。かつては兵役を終えたものには公務員試験などで加点が与えられる制度がありましたが、2001年にフェミニズム団体などの反発によって廃止され、現在はキャリアをめぐる男女間での区別はなくなっています。

韓国の青年は、20代の貴重な時間を国に奪われてキャリアの空白ができるという不利益を受けた上に、“国策”によって「男らしく」行動したり発言したりすることが厳しく抑圧されています。

あたかも男性であることが“悪”であるかのような社会風潮におかれているため、若い男性たちの“逆差別”への不満は鬱積し、自信を喪失する危機を迎え、若者の自殺率における極端な“男女差”をもたらしています。

このような状況は必ずしも韓国にのみみられるわけではなく、根源的な課題としては日本やその他の国にも共通している部分が多いと思われるため、他山の石として真剣に受け止めていく必要があるように思います。




長きに渡って歴史的に差別され、権利が奪われ、地位が保障されない状況が続いてきた女性の活躍を後押しするための政策は極めて重要ですし、これからの社会が未来志向で発展していく礎になるものだと思います。

そのためには、女性が歴史的に差別されてきた事実の積み重ねや、現在の政治・経済・生活において女性がおかれている課題について、冷静に広く認識を学び合い、課題解決の方向性を共有していくことが大切でしょう。

日本においては男女雇用機会均等法や女性活躍推進法などがありますが、国や自治体などが実施する政策を基調として、ポジティブアクションやクォーター制度などの差別を解消するための取り組みが進められることはとても有意義なことです。

このような政策や運動は、あくまで女性差別を解消して男性と女性が等しく活躍できる社会を実現するためのものであり、それが男性蔑視や男性嫌悪へとエスカレートしたり、あるいは反動的な女性蔑視や女性嫌悪を生み出したのでは、あまりにも悲しい姿であり、本末転倒だといえます。

私はジェンダーは本来イデオロギーではないと考えています。そもそもジェンダーはグラデーションですから、男性は男性らしく、女性は女性らしくと厳密に固定化されたものではないはずです。したがって、本来、ジェンダーが自然に意識されている社会では、女性蔑視も男性蔑視も起こらないと思います。

なぜ、ジェンダーがイデオロギーとなり、しかも社会を分断するような深刻な危機を招いてしまうのでしょうか。それは、そもそも男性と女性とはまったく相容れない根本的に異質な別個の生き物なのだという、ジェンダーについての誤った認識が根底にあるからだと思います。

このような無意識ともいえる固定観念を見直さないままにジェンダーついて考え、発言し、社会的な運動を起こし、あるいは国家的な政策を実行すると、いつしかジェンダーとジェンダーとが反発しあい、あたかも抗争関係かのように戦いが勃発し、社会が深刻な分断にさらされてしまうのではないでしょうか。

男性と女性とは、たしかに違います。でも、ジェンダーはそもそもグラデーションです。男性の中にも女性的な要素があり、女性の中にも男性的な要素があります。もちろん個体差がありますから、ものすごく男性的、女性的な人もいれば、男性と女性との間を行き来するような人もいます。

このように考えると、ジェンダーをめぐって対立するということは、そもそもが「自己否定」に近いのだと気づくことになります。男性に生まれても、体格や腕力に恵まれず、男性的な仕事には向かない人もいます。女性に生まれても、女性的な文化に馴染めず、メイクをしたり着飾ることが嫌な人もいます。

大切なのは、相手を認めること。男性であれ、女性であれ、もしかしたら自分の中にも大いに異性の要素があるかもしれないと考える想像力ではないでしょうか。そもそも相手を認める姿勢、敬意を払う態度がない主張なり運動なり政策は、フェミニズムであれマスキュリズムであれ、最終的には自己否定へとつながる脆さがあり、本来の存在意義を失うのだと思います。

男性と女性とが、それぞれ異なる点ばかりを強調してお互いを思いやることができない社会は、決して万物の霊長に相応しい姿ではありません。ジェンダーは、それぞれの人に与えられた才能や気質や性格などと同じように、かけがえのない個性のひとつだという意識を共有して、みんなが差別されることなく温かい気持ちで向き合える社会を目指していきたいものです。

学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。