ドラァグクイーンと女装とLGBT
ひさびさにナジャ・グランディーバさんをテレビで見ました。独特の雰囲気を持つドラァグクイーンで有名ですね。関西方面ではメディアへの露出もかなり多く、特にファンも多いようです。私もテレビ番組でのトークを聴いていて、少し引き込まれてしまいました。
ナジャさんは、とても目立つ奇抜なメイクがトレードマークで、身長も180センチ近くもある大柄な人なので、失礼ながら外観的には普通の女性には見えないと思います。でも、そんなことは関係なくその人となりや人間的な魅力がどんどん伝わってきますし、見ている人はその人が男性か女性かで判断しているのではないですね。
それは芸能人やパフォーマーだということもありますが、基本的には一般人であっても同じだと思います。男がメイクをしているだけで非常識だというレッテルを張られる時代ではないし、女の格好をしているにしても単純にパスするかというクオリティだけでその人が判断されるわけでないですね。
それがナジャさんの存在を見ているとよく分かるし、自然と人間的な優しさや熱量が伝わってくる。要は男性の格好をしているか、女性の格好をしているかは、もちろん外観を判断する上で重要な要素だけれども、それを上回るくらいの人間性や強烈な個性がなければやはり他人は理解してくれないし、評価はされない。
今はだれがどんな格好をしようが自由な時代にどんどん近づきつつありますが、だからこそメイクや服装な身だしなみといった外観を超える人間の内面や本質が厳しく問われるようになっているように感じます。
先日のパラリンピックの開会式でも話題になったはるな愛さんが、映画「息子のままで、女子になる」の中で、主人公のサリー楓さんと対面している場面があります。私は映画の全編の中でもとりわけ印象に残っていますが、マイノリティーの先輩格としてはるなさんが楓さんに送ったメッセージは、「すべてを自分が背負い込もうとしないこと」。
今はLGBTへの理解や認知度もじわじわと上がってきているので、啓蒙したり社会活動を行う動きも各分野で出てきています。楓さんの映画も社会への強力なメッセージ性がありますが、そんな存在になるとあたかも自分自身が何かを代表して話したり行動しなければならないという意識に駆られることがあるようです。
でも、はるなさんは、それは違うといいます。最後はすべてを取っ払った自分自身の素顔で勝負するしかない。それは、マイノリティーとかそうでないとかは関係なく、あくまでその人の生きざまだったり熱量だったり人間としてのあり方だったりする。
ドラァグクイーンに、女装に、LGBT。さまざまな表現があり、カテゴリーがあり、それぞれ意味や存在が異なりますが、本質はまったく同じなのではないかと思います。その人の魅力があって、あくまでその表現がメイクだったり服飾だったりするだけ。パラリンピックでのはるなさんを見ていて、本当にそうだなと感じました。
人間的魅力(性格・能力・誠意・愛情...) > 自己表現(メイク・服装・アクセサリー・身なり・会話...)
当たり前のことかもしれませんが、こんな視点を大切に日々の人間関係に接していきたいものですね。
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学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。