不登校だった中学時代の病み期について当事者の語り
はじめに:
こちらは6年前,私が大学1年生のときに書いた文章です.
以下は本編です.
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記事のタイトル通り、そういった時期がありました。どの時期にどういう状況だったかは、目次の通りです。
一つの事例として、何か参考になるものがお届けできたら、と思っています。かつて思っていたこと・感じていたことを正直にちゃんと書く努力をするつもりです。
読んだ方が不快になる表現も含まれると思います。あらかじめ謝罪いたします。
プロローグ
なぜ、学校に行かなくなったのか。明確な理由は当時ですらわかりませんでした(明確な理由づけができるケースの方が少ないんじゃないかと思いますけど)。当時から今まで、親や自分は「重圧が重なってしまった」「張り詰めていた糸が切れた」とかなんとか形容していました。しかし最近知った「キャパオーバー」という言葉が、5年前のあの頃の記憶と妙にマッチし、しっくりくるなあと感じました。学校で生きるのに疲れたのかな?と思います。
1学年50人レベルの小さな田舎の中学校に通っていました。ぼくはちゃんと課題をやり、テストで点を取る生徒でした。また、一年生委員会の会長というものをやっていました。強くないとある運動部に属していました。
中学1年生の後半、4月から大きく変わった怒涛の生活に疲れていたのだと思います。なんか、学校に行くの、疲れたな、部活も寒いし疲れるし、不快… 具合が悪い、でするっと休めないかな、、と思っていました。時期は1月の終わりから2月の初めにかけての週。ぼくは何となく…の仮病で月曜日と水曜日を休みました。が、残りはちゃんと学校に行きました。その頃から、前兆は出ていたのだと思います。
「きっかけ」というのが、その次の週にあります。この週に起きたからこそきっかけになったのだろう、という出来事です。
ぼくの学校では月に一回、委員会ごとに集会があり、そこでは今月の活動とその反省や、来月の目標などを決めていました。一年生委員会でも毎月あり、ぼくは司会だったのですが、割とグダッていて、時間が長くかかっていました。
2月の集会でいつものように長い時間がかかって集会が終わり「先生の話」になったとき、「どうしてこんなに時間がかかるのか?何も決めず話し合って、ダラダラ決定して、司会、グダグダしすぎ、意見を考えて来させるといったことをすればいいだろう?どうして手早くさばけないのか?こう長く時間がかかるままでいいのか?」と、4月〜1月までは何も言われなかったのに、いきなりキレられ、説教をされました。ぼくは立って司会をしていましたが、ひどくショックを受けて、頭がクラクラして、目眩がしてきました。立っていられず、そのままゆっくり倒れることにしました。自主的にゆっくり倒れたのでもちろん怪我はありませんでしたし、目もちゃんと開いていました。「どうした」「大丈夫か!?」という声が聞こえていました。教室の床に寝そべり、目に机・椅子の足をとらえながら、「何なんだこの組織は、ぼくは頑張ってる、頑張ってるはずなのに、どうしてこんな目にあうのか、つらい、ああ、もういやだ、学校というものにはもう一生行かない、何があっても行かない」といったことを心の中で唱えていました。自然と涙が出てきました。その日は保健室に行って、家族に車で迎えにきてもらいました。
一晩寝ると、寝る前に持っていた感情が馬鹿らしくなることはよくあると思います。ぼくも少しそういう気分になりました。ただ、やはり出来事の印象が自分の中でも強かったのか、ふっ切ることはできませんでした。つまり、翌日は、学校に行きませんでした。
1日休み、もう一晩寝て、気分の起伏も収まったのでしょう、その翌日は、学校に行きました。「大丈夫だった?」「驚いたよ」という言葉をかけられました。
しかし、そのまた翌日、朝、目を覚まして、今までの自分の身に起こったことがふと頭に浮かびました。寝起きの頭でぼんやりと考えました。そして、ぼくはこう思いました。「なんか…学校に行きたくない…」
なぜその結論に至ったのかの流れは、今となってはわかりません。今となってはというか、当時の自分もわかってないと思います。とにかく、ぼくの脳はそういう選択を導き出しました。
この日から、ぼくは学校に行かなくなりました。
中1、2〜3月 〜全く学校に行かない〜
2月
家にいました。ずっとテレビを見ていました。また、漫画や小説を読んでいました。
録画したバラエティー番組を消費し、すでに読んだことのある漫画をつまらなそうに読み返す、という1日を過ごしていました。テレビの世界を見物しつつ、現実を少しだけ忘れていたのでしょう。
ゲームは、平日は禁止されていました。そんな強制的にダメだと言われてた感じではありませんが、昔から「平日にしっかり学校に最初から最後まで行ってない時は、その日一日ゲームをしてはいけない」というルールだったため、従っていました。父親や母親に見つかったら怒られる、怒られまでは行かなくとも、何か自分の現状の批判をされる、怖い と思っていました。
兄弟が登校して行く中、ぼくは一人布団で寝ていたり、本を読んでいたりしました。この朝に慣れることはなく、毎日「自分は普通の人と違って学校に行ってない、普通のことができない」という罪悪感を感じていました。兄弟の「いってきまーす!」と親の「いってらっしゃい!」という元気な声が嫌いでした。耳を塞ぎたくなりました。当人たちは何も悪いことはしていないし、何も悪気はないわけです。そんなことが要因で不快になってしまう自分に対して、さらなる不快感を感じました。自己嫌悪をしました。
2月には学年末の定期テストがありました。しかし、ぼくはテストを受けませんでした。テストを受けないことによる内申点等の悪影響の説明はされました。が、テストの日、家を出ることができませんでした。問題はもらいはしましたが、ちょっとやってみて「ここまではわかる、1月にやった、でもこれ以降は全くわからない、定期テストが何もわからない、そういう人間にぼくはなったのか」「何のためにこれをやっているんだ?何も意味ないじゃないか」と思って、すぐにやめてしまいました。
3月はずっと行きませんでした。変わらず、テレビを見て、本を読んで、生活していました。
祖父に「〇〇(本名)、卒業式にも行かなかったのか、 先輩たちを送ってやらなかったのか? え? 」と強い口調で言われたことが印象に残っています。「今の時期にそういうこと言うのは違くないか?」「いや正論ではあるけど」「いきなり行くなんて無理だよ、理解しろよ、」「あーもうどうすればいいんだ、、」と思いつつ、黙って自室に戻りました。
一度、クラスの人たち数人が軽いメッセージを書いた手紙をもらいました。当然ではありますが、待ってるよ、きてね、といった文面でした。嬉しかったは嬉しかったですが、これを機にまた学校行こう!とはなりませんでした。初期の段階だったので、残念ながらどっぷりと沈み込んだところから這い上がる力は得られませんでした。
手紙はそれっきり、何もありませんでした。10月まで。
3月の終わりのある日の19時ごろに、車に乗って学校に行きました。担任と、部活の顧問の人とあったと思います。会話の内容は詳しく覚えていませんが、「久しぶり」「元気か?」程度のものだったと思います。車からちょっと出て、外で多少の会話をしただけで帰りました。
離任式、「お世話になった先生を送ってやれ」と家族に促されはしました。しかし、行きませんでした。
実際、「不登校」と表されるのに何も文句を言えない生徒ではありましたが、「〇〇は不登校」と言葉で、口に出して言われるのがとても嫌いでした。(これは期間ずっと通してそうだった)なんというか、好きで登校しなくなったわけではないのに、「登校をしない、することがない類のもの」と形容されるのに不快感があったのでしょう。「〇〇は学校に行けていない」と言われるのにはまだ不快感はそんなにありませんでした。これはぼく特有の感じ方だったのかもしれませんが、やはり「学校に行けていない」当人の前で、「お前は不登校だよな」という言葉を叩きつけるのはやめるべきだと思います。
中2、4〜7月 〜学校に行っても教室に行かない〜
4月
春休みも終わって、これを機に何かを変えなければいけないという強迫観念がありました。保健室の隣にあった「心の教室」て感じの名前の教室に行っていました。11時ごろに学校に行き、多少自習をし、昼休みが終わったら帰るという生活をしていました。
家族には、毎日車で送ってもいられないと言われましたし、自転車で登校していました。午前11時頃、こんな時間に街にいるのを知っている人に見られたらどうしようか、恥ずかしい、ぼくは普通に学校に行っている普通の人だと思われたい、そう思われるべきなのに、、と、怯えながら登校していました。田舎の小さい地域の小さいコミュニティに住んでいたので、そこら中に知り合いの知り合いがいたのです。なるべく人通りの少ない、人に出会いにくい道を頑張って探して通っていました。車にも会いたくなかった、「こんな時間に道で自転車を漕いでいる存在」がいるとも思われたくなかったので、車の通りが多い時は一旦止まって、少なくなってから道を行くようにしていました。「ぼくのことを気にしている通行人なんてきっと誰もいないんだろう、でもなんだかすごくいやだ、認知されたくない」「朝から学校に行けばこんなことで怯えて悩むことなんてないのに、それはわかっているのに」「でもぼくはこの行動を日常的に続けてしまう、どうして?どうして?」と、どうにもできずに悩みつつ登校していました。
4月に、クラスで公園に行き、バーベキューをしたり運動したりするというイベントがありました。「これを機に、きてみよう」と担任に言われ、昼頃、車に乗って公園につきました。窓からは、みんなが楽しくバーベキューをしている「普通の世界」が見えました。「さあ、行きなよ」と、運転してきた母親に言われました。「ああ、行くか…」「いや…行きたくない…」「えっ、…じゃあ、一緒にあそこまで行こうか?」「それはもっといやだ…」と、出るか出まいかと躊躇していました。結局意を決して、血がひいた感覚、体があるべき場所になくて落ち着かない感覚の中、輪に入って行きました。仲が良かった友達が話してくれたのが嬉しかったです。しかしバーベキュー後の自由時間では、運動の輪に入ることはできず、みんなが運動する様子を遊具にもたれかかりながら見ていました。何か違う、と思っていました。
これをきっかけに教室に行く、ということはありませんでした。
クラスの仲の良い人が、昼食の時間に、ぼくのいる「心の教室」に来て、一緒に給食を食べてくれるということが何度かありました。そういう日は、その人たちと一緒なら、と昼休みに「心の教室」から出て遊びに行くことができました。ものすごく久しぶりに図書室に行ったのを覚えています。1年生の時にかなり高い頻度で通っていたのですが、2月から全く来てなかったので、司書さんに「なんだか〇〇くんが来るの久しぶりだね」と言われました。「ああ、ぼくの現在の状況を知らないのか」と思いつつ、「ああ、はい、そうですね…」と曖昧な返事をしました。
また、5月ごろだったと思うのですが、病院に通い始めました。といっても1ヶ月に1回という頻度ですが。子供向けの精神科のようなところでした。なんとなく話を聞かれ、話をされ、よくわからない薬を出された記憶があります。医師の方を批判したいわけではないですが、病院に行く時間は好きではありませんでした。外に連れて行かれるのがいやで、昼間に病院にいる自分を晒すのがいやでした。
6月に、定期テストがありました。今回は、別室で受けはしました。しかし、テスト中の「できない…」という感覚、今までの点数との大きなギャップにショックを受けました。このままじゃいやだ、自分を自分たらしめる要素の一つである「成績」が、こんなになってしまっていいのか、やばい、ぼくの「成績をとる人」としての人生はここまでか、とも思いました。いやでも、どうでもいい、今はそういう期間なんだ、と自分に言い聞かせていました。しかし、「この期間は一体いつ終わるんだろうか、終わりはあるのだろうか」「終わらせることができるのは自分だけ、というのは言われなくたってわかっている、何度もそのフレーズは頭をよぎった。しかし、なぜか、なぜか今ぼくは何もできない」と、終わりがないことへの恐怖、終わらせられない自分の無力さを感じました。
中2、9〜10月 〜午後から登校〜
夏休みは終わった、ここで変わろう、変わりたい、変わらないと、変わるべき、という自分の思考、そして担任の「何か変えよう」という言葉に押されつつ、教室にいくことを始めました。2月の初旬以来、実に7ヶ月ぶりに教室に入りました。しかし、基本的には午前の最後の授業、もしくは午後から登校していました。欠席する日もありました。この頃から、部活にもちゃんと行くようになりました。
このころも、変わらず、怯えながら自転車登校をしていました。
授業をやっている途中に教室に入るのはいやだ、休み時間に入るのも、みんなが教室にいてわいわいしている中で入るのもいやだ、と思っていました。うまいこと体育でみんながいない時間帯に教室に行って、みんなが帰って来たら気づいたらぼくが居る、という状況をうまく作り出していました。早めに着いてしまった時は、隣の空き教室に何も言わずに潜んで、授業が終わるのを待っていました。そういう日は、「誰か来たらいやだな、来ないで欲しい」と怯えつつ、なるべく物音を立てないようにして空き教室で勉強していました。
うちの学校の昼食は、教室の座席のまま6人くらいの班になるという座席指定制だったんですね。班になった時、ぼくの右隣にはAさん、左隣にはBさんがいました。AさんとBさんは非常に仲が良く、かつクラスのヒエラルキートップの女子グループに属していたと言ってよい二人でした。
御察しの通り、ぼくがいない時はその二人は席を移動し、隣同士でキャッキャと喋っているわけです。ある日、昼食の時間の始まった時。二人が隣同士に座ろうとしているその瞬間にぼくが教室にきました。ぼくが自分の席に座ると、Aさんが冷めた顔をして呟いた「ああ今日きたんだ…なんで来るんだよ(ボソッ)…」という言葉が印象に残っています。これを書いているまさに今も、頭から血がスッと引いていくようなショックと、どこにも吐き出せずに脳に詰め込まれる怒りと、自分の体が膝から崩れ落ちていくような悲しみと、腹の中をうごめく気持ち悪さを体感したその瞬間を思い出しました。
9月に定期テストがありました。真面目に課題をやり、1位に帰ってきた、そのはず、と思っていました。しかしテストが帰ってくると、思ったより出来が悪く、1位は他の人に取られてしまいました。このままずっと自分のアイデンティティは取り戻せないのかも…と不安になりました。
うちの学校は2学期制でしたので、10月に1学期の成績表が渡されます。2とか3とか4とかが散らばっていました。そして音楽と体育には「不」と書かれていました。音楽と体育は午前にありました。体育は全て、昼食前の最後の時限に配置されていました。この、教室にみんながいない時間にこっそり登校してたわけですから、当然授業には行ってませんでした。実技教科で、授業に行ってない、つまり判定不能。0点。内申点ってやつが怖くなりました。
そしてとうとう、10月の途中から、朝から学校に行けるようになりました。きっかけとしては、自分のクラスへ教育実習の先生が来たことがあったと思います。「自分が朝から登校できない人間であることを認識する人間を増やしたくない、そう思われたくない」という気持ちが働いたのでしょう。「教室には行けているわけだし、あとちょっとなんだけど、なんだか、できないな、」と感じていたちょうどその時に、良いきっかけを与えてもらいました。
以降は完全に復活しました。毎日朝から学校に行き、授業を受け、部活に参加し、帰るという「普通の生活」に戻りました。
エピローグ
その後は、受験期に中学校はクソだ、行きたくねえとも思ったりしましたが、長期間学校に行けないということもなく中学校を卒業しました。
高校でも、長期間学校に行けないということはなく無事に卒業しました。現在も普通に大学に通っています。
今でも、「不登校」という言葉を耳で聞いたり、文字列を見たりすると、何とも形容しがたいもやもやとした不快な気分に陥ります。トラウマチックな感じでしょうか。
こういった期間が存在したことに関しては
この期間があって良かった、というのは嘘になります。そりゃあ、ないほうが良かった、「普通の生活」をして、もっと勉強していれば良かったとは思っています。
しかし、無駄ではなかったとは思っています。挫折というか、複雑な心の苦しみを乗り越える経験ができたのは、無駄にはなっていない、と。
後悔しても仕方がない、こういう時期が存在した、これが自分の人生の一部分、と考えるのが一番でしょうが。
学校に行けていない人には色々な事情がありますし、人の数だけ理由があると思います。なので、経験が一度あるからといって「その気持ちわかるよ!!話して話して!!」といきなりでしゃばったりするのは絶対に違う、と感じます。ただ、境遇が違うとはいえ「学校に行けなかった」という同じ人生の事実の部分を体験した者であるのは確かです。求められたら、理解者になりたい、味方になりたいと思っています。
長い記事になりました。中学時代から腹に抱えていたものを、ようやく吐き出せた気分です。ここまでお読みいただきありがとうございました。何か参考になるものがお届けできていたら嬉しいです。
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お読みいただきありがとうございました.あなたにとって何か参考になる内容が含まれていれば,幸いです.
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