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32 社会運動の勃興

本時の問い「第一次世界大戦後に社会運動が活発になったのはなぜか。」

第32回目の授業は大正時代の社会運動について扱いました。本時の問いは「第一次世界大戦後に社会運動が活発になったのはなぜか。」でした。

労働運動

最初に大正期の労働運動についてまとめたスライドを見てください。

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1912年に結成された友愛会の特徴は労使協調主義にもとづいた活動であることです。

資本家と労働者のあいだにはもともと対立はなく、互いに協調・協力することで生産性が向上し利潤が増大し、労使双方に利益があるという考えです。

この友愛会が、1919年に大日本労働総同盟友愛会、そして1921年、日本労働総同盟と改称し、階級闘争主義にもとづいた活動を展開します。

階級闘争主義とは資本家と労働者の対立は避けられないとするものですから、労使協調主義とは真っ向から対立するものです。

なぜそのような変化が起きたのでしょうか。それをこれまでに学習した出来事と結びつけることが重要です。

問1
「大日本労働総同盟」友愛会の名前から、組織の拡大が考えられます。実際、友愛会は1918年には、120支部会員3万人にまで発展しました。1912年の結成から1918年までのあいだに、労働者の数が増えるような出来事といえば何が考えられますか?

問2
資本家と労働者の対立は避けられないとする階級闘争主義に方向転換したのは、この時期に日本社会の中で格差が拡大していることが可視化される出来事がありました。また、民衆運動が社会を変えるという出来事も経験しています。それは何だったでしょう?

1の答え
第一次世界大戦中の大戦景気で日本は農業国から工業国へと変わりました。工業は依然として繊維産業が中心ですから女性労働者が多いのですが、重化学工業の発展により男性労働者も急増しました。

2の答え
1917年にはロシア革命がおきました。これは民衆の力で帝政が崩壊するという出来事でした。1918年には米騒動が起きました。これは大戦景気の中でも米を買うことができずに困っている人がいることを多くの人が知ることになった出来事です。経済が発展しても格差が解消していないことを知った人々のなかに、自分たちの要求を戦って勝ち取ろうとする人々が登場したのです。

労働運動が拡大・発展していった背景を理解することができれば、本時の問いについても答えられると思います。それでは、その他の社会運動についても見ていきましょう。

農民運動

1920年代になると小作争議の参加人員、発生件数が激増します。小作争議とは小作人による小作料の引下げを求める運動です。2021年の大学入学共通テストでは小作料に関する理解を問う問題が出題されました。以前すでに扱いましたが大丈夫ですか?小作料は現物、現金のどちらで納めるのでしょう?現物ですよね。

農民運動の増加の背景には、1922年に結成された日本農民組合の活動もあります。また、東大新人会という吉野作造の影響を受けた学生たちが、「民衆のために」を合い言葉に民衆の組織化を進めたことなどもあげられます。

女性解放運動

1911年、平塚らいてうらが青鞜社を結成し、雑誌『青鞜』を創刊します。創刊号の「原始、女性は実に太陽であった」という言葉は有名ですね。平塚は女性が、妻は母としての役割だけにしばりつけられていると考え、そこからの解放を訴えます。青鞜社は文芸団体です。なぜかというと、1900年に制定された治安警察法により女性の政治運動参加は禁じられていたため、文学作品の中で新しい女性の生き方を伝えようとしたのです。平塚は市川房枝とともに女性の地位を高める運動を進めるため、1920年に新婦人協会を結成します。この運動の結果、1922年には女性の政治運動参加を禁じた治安警察法が改正され、女性も政治演説会に参加できるようになりました。

全国水平社の結成

長い間、差別に苦しんできた被差別部落の住民の中で、西光万吉らを中心に社会的差別を自主的に撤廃しようとする運動が本格化します。1922年、全国水平社が結成されました。このことについては、自主的な動きであると言うことを「水平社宣言」の文から読み取ってもらいました。

関東大震災

1923年9月1日、関東大震災が発生します。食事の支度をしていた昼の時間に起きたこと、風が強い日だったこと、木造家屋が多かったことなどがあり、地震と火災で関東地方は廃墟と化し、死者・行方不明者は10万人以上を数えました。

この震災の混乱のなかで朝鮮人や中国人、また労働運動や社会主義運動に関わっていた人々が殺害されるという事件がおこりました。混乱の中でさまざまなデマが広がり、住民が組織した自警団などの手により、多数の朝鮮人や中国人が殺害されました。この背景には、日本の植民地支配に対する抵抗運動への恐怖心と、民族的な差別意識があったと考えられます。

亀戸警察署構内で警備に当たっていた軍隊が社会主義者10人を殺害する事件もおきました。

また、憲兵の甘粕正彦らが無政府主義者の大杉栄と伊藤野枝、大杉の甥を殺害する事件もおきます。

大正デモクラシーの風潮といっても、自分とは異なる考えをもつ人を暴力によって封じ込めるという考えがあったことも忘れてはいけません。

今日はここまでとします。

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