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31 ワシントン会議

本時の問い「ワシントン体制は日米関係の対立か協調か。」

第31回目の授業は、ワシントン体制と協調外交の展開についてを扱います。1921~1922年のワシントン会議で締結された条約の内容をしっかり理解することがポイントです。本時の問いは「ワシントン体制は日米関係の対立か協調か。」でしたね。

ワシントン会議

ワシントン会議は、アメリカ大統領ハーディングが列国に呼びかけて、1921年11月に開催されました。日本の全権は原敬内閣の海軍大臣加藤友三郎と、駐米大使の幣原喜重郎です。

アメリカはワシントン会議をなぜ開こうとしたのでしょう?そして日本はアメリカの呼びかけをどのように受け止めたのでしょう?

アメリカのねらいについては教科書から調べてもらいました。

まず第1に、大国間の軍備拡張競争を抑えることです。第1次世界大戦後、世界は平和を求める声が高まっていましたが、第一次世界大戦で大きな打撃を受けたイギリスの後退、それに対してアメリカが地位を向上させ国際社会に対する影響力を強め、日本は中国や西太平洋地域で勢力を拡大するなど、列国間の対立が存在しており、建艦競争と呼ばれる軍備拡張が進められていました。教科書では、ワシントン会議の冒頭でアメリカ国務長官ヒューズが「具体的な海軍軍縮計画を提案し、聴衆の拍手をあびた」とあります。

次に東アジアの国際秩序の確立です。第一次世界大戦中に日本が中国に対して勢力を拡張したことは、アメリカの対中国政策とは対立するものでした。そこでアメリカは日本の東アジアでの膨張を抑えようとします。

このようにワシントン会議は日本にとっては厳しい内容になる可能性があったのにもかかわらず、なぜ日本は会議に参加したのでしょう。

まず教科書の一般会計歳出額における軍事費の割合を見ると、1920年、21年の軍事費の割合は50%近い状況になっています。大戦景気、それから原敬内閣の授業で学びましたが、1920年から日本は戦後恐慌になっています。原敬内閣は戦後恐慌のなか、軍事費の増大を抑えたかったと考えられます。

次に資料集の風刺画を見てみます。ワシントン会議に参加する国々の代表がテーブルを囲んでいます。それぞれの代表の皿には料理が盛り付けられていますが、日本の3人の代表には他の国とは違って盛りだくさんな料理が用意されています。これは、欧米諸国との協調関係を強化するために、会議への参加を決めながらも、日本がたくさんの要求をのまされるのではないかという思いをこめているものと思われます。

四カ国条約・九カ国条約

会議では、1921年12月、アメリカ・イギリス・フランス・日本により太平洋の平和に関する四カ国条約が結ばれます。この条約により日英同盟協約が廃棄されます。各国が太平洋に領有する島嶼に関する権利を相互に尊重し、紛争がおきた場合には共同会議での解決をはかることを約束しました。各国がこれまでに太平洋で築いてきた勢力範囲の現状維持と紛争を話し合いで解決することを決めたのです。

1922年2月、アメリカ・イギリス・フランス・日本・イタリア・中国・ベルギー・ポルトガル・オランダにより、中国問題に関する九カ国条約を結びます。この条約で各国は、中国の主権と独立の尊重、中国に対する門戸開放と機会均等を取り決めました。また、このときにアメリカとのあいだで第一次世界大戦中に締結した、石井・ランシング協定が廃棄されます。

結局、九カ国条約は各国がこれまでにもっていた権益の現状維持は認められます。その中で問題となったのは日本と中国とのあいだにあった山東問題です。中国は山東省の旧ドイツ権益の返還を主張します。この問題については山東懸案解決条約で、日本が山東昇級ドイツ権益を返還します。また、対華二十一カ条要求の中で留保していた第五号を日本が撤回することで、二十一カ条要求をもとに中国とのあいだに結んだ他の条約については維持されました。

ワシントン海軍軍縮条約

1922年2月、アメリカ・イギリス・フランス・日本・イタリアの5ヵ国のあいだで、ワシントン海軍軍縮条約が調印されます。この条約により、主力艦の10年間建造禁止と主力艦保有量の制限が決まりました。主力艦保有量の制限は各国の保有比率を決めることで実現しました。アメリカ・イギリスが5に対し、日本は3,フランス・イタリアが1.67です。

資料集には以下のような記述があります。

加藤友三郎全権は、海軍軍令部の対英米7割の主張を抑え調印した。加藤の決断は会議で高く評価された。

海軍軍令部の対英米7割という考えは、1930年のロンドン海軍軍縮条約でも問題になります。ワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約では、国内の受け止め方に違いがありました。今度、ロンドン海軍軍縮条約を学ぶときに何が違っていたのかを確認しましょう。

ワシントン体制

以上の3つの条約(四カ国条約、九カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約)によって、アメリカ・イギリス・日本の協力関係を中心に、ワシントン体制と呼ばれる東アジア・太平洋の新しい国際秩序が築かれました。

ワシントン会議への参加を決めた原敬が暗殺された後、立憲政友会の高橋是清内閣が成立します。高橋内閣もワシントン会議を積極的に受け入れて協調外交の基礎をつくり、その後の政権も引き継いでいきました。また、海軍軍縮がおこなわれると、陸軍も軍縮をおこなうとともに総力戦体制の確立に向けた兵器の近代化を進めます。授業の最初に見た日本の一般会計歳出額における軍事費の割合の低下はこのようなかたちで進められました。

今日はここまでとします。

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