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19世紀フランスの印象派の画家 カミーユ・ピサロ

本日は、19世紀フランスの印象派の画家であるカミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830年7月10日 - 1903年11月13日)の誕生日です。

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1900年頃(70歳頃)の写真

下記「目次」の「ギャラリー」の項目以下において、カミーユ・ピサロのいくつかの作品を鑑賞することができます。

カミーユ・ピサロ

小学館の日本大百科全書(ニッポニカ)によれば、カミーユ・ピサロについて、次のように記載されております。

フランスの画家。生涯の大半をフランスで過ごした印象派を代表する1人だが、国籍は終生デンマークであった。7月10日、フランス系ユダヤ人を両親に、当時デンマーク領のアンティーユ諸島サン・トマ島に生まれる。若くしてフランスに渡り、1855年絵画修業のためパリに出、コロー、クールベ、ドービニーらから大きな影響を受けた。59年から70年の間、何度かサロンに入選するが、63年の落選展にも参加している。70~71年のプロイセン・フランス戦争の間はロンドンに渡り、同じくロンドンにきたモネとともにコンスタブルやターナーの作品に触れて、深い感銘を受ける

上記記載中の、ドービニーターナーにつきましては、下記の記事をご参照ください。



1872年から居を構えたポントアズ(ポントアーズ)

帰国後の1872年からはポントアズに居を構え、印象主義の様式で大地の風景を描く。ピサロは74年から86年まで8回開かれた印象派展のすべてに参加した唯一の画家であり、第1回展のための規約を草する労を引き受けるなど、組織化にはきわめて熱心で、しばしばグループ内に生じた亀裂(きれつ)の修復にも腐心した。70年代末から彼の絵のなかでは農民がしだいに重要な位置を占めるようになり、また版画の制作にも取り組んだ。85~90年の間、若いスーラの感化を受けて新印象主義の手法で描いたが、それはひとつにはそれまでのピサロの描法の論理的な展開でもあった。しかし、晩年はふたたび印象主義の描法に戻り84年来居住するエラニーで田園の主題に取り組む一方、パリ、ルーアン、ディエップなどで都会の風景を描いた。1903年11月12日パリで没。ピサロはクロポトキンやエリゼ・ルクリュなどのアナキストの著述にも通じており、こうした彼の政治思想がその芸術を貫く重要な要素の一つとも考えられている。代表作には『赤い屋根』(1877)など。[大森達次]

1984年来居住したエラニー

また、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、概要として、次のように記載されています。

カリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島の生まれ。家業の金物屋を手伝っていたが、画家フリッツ・メルビューの誘いで1852年(22歳頃)から1854年(24歳頃)まで、島を出てベネズエラに旅行に出た。1855年(25歳)、画家を志してパリに出て、画塾でモネ、セザンヌといった画家と知り合った。1859年(29歳頃)にサロン・ド・パリに初入選するが、1860年代はサロンへの入選と落選を繰り返し、生活は苦しかった。当時はコローにならった画風であった。マネを中心に若手画家たちがバティニョール地区のカフェ・ゲルボワに集まり、バティニョール派と呼ばれたが、年長のピサロもこれに加わるようになった(→画塾とサロン(1860年代))。1869年からパリ郊外のルーヴシエンヌに住み、モネ、シスレー、ルノワールと一緒に戸外制作を行ううちに、明るい色調の絵画を描くようになった。1870年の普仏戦争を避けてロンドンにわたり、画商デュラン=リュエルと知り合った(ルーヴシエンヌ、普仏戦争(1869年-1872年))。1872年からはポントワーズに住み、田園風景を描いた。サロンへの応募はせず、デュラン=リュエルの支援を受けて制作していたが、モネらとともに独自のグループ展を計画し1874年、第1回印象派展を開催した。しかし当時主流だったアカデミズム絵画の立場からは受け入れられず、新聞からは酷評された。その後も、印象派展は全8回開かれたが、全てに参加したのはピサロだけである。第4回印象派展の頃から、主に風景画を描くモネ、ルノワールらの仲間と、風俗画を描くドガとの間でサロンへの立場など様々な問題について意見の対立が顕在化し、ピサロもその調停を試みたがグループの分裂を防ぐことはできなかった。第7回印象派展の開かれた1882年頃には、人物画を中心に描くようになった(→ポントワーズ、オニー(1872年-1884年))。1884年からは、エラニーに住んだ。1885年、若手のジョルジュ・スーラと知り合うと、その点描の技法に感化され、1880年代後半は、周囲の不評にもかかわらず、新印象主義を追求した。最後となる第8回印象派展にスーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を出品させたのもピサロであるが、この展覧会は、印象派の終焉を象徴するものとなった。1890年代初めには、点描の限界を感じて新印象派を放棄した。晩年は眼の病気が悪化したこともあり、パリ、ルーアン、ル・アーヴル、ディエップという4都市で、ホテルの部屋などから都市の情景を描く「都市シリーズ」を多く制作している(→エラニー(1884年-1903年))。
ピサロが生涯残した油彩画作品は1316点、版画は200点余りに上る。

1869年に住んだパリ郊外のルーヴシエンヌ

なお、上記に「第8回印象派展にスーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を出品させたのもピサロ」との記載がございますが、下記の動画では、この絵画をクローズアップしておりますので、点描法を用いて描かれていることがよくわかると思います。


ギャラリー

『セント・トーマス島の海岸で話をする2人の女』1856年。油彩、キャンバス、27.7 × 41 cm。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

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『モンモランシーの風景』1859年頃。油彩、木、21.5 × 27.2 cm。オルセー美術館。

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この頃までPizarroという綴りで署名していました。


『シュヌヴィエール、マルヌ川のほとり』1864-65年頃。油彩、キャンバス、91.5 × 145.5 cm。スコットランド国立美術館

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『マルヌ川のほとり、冬』1866年。油彩、キャンバス、91.8 × 150.2 cm。シカゴ美術館

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『ジャレの丘』1867年。油彩、キャンバス、87 × 114.9 cm。メトロポリタン美術館(ニューヨーク)

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『ルーヴシエンヌのヴェルサイユに向かう道』1869年。油彩、キャンバス、38.4 × 46.3 cm。ウォルターズ美術館(ボルチモア)

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『クリスタル・パレス』1871年。油彩、キャンバス、47.2 × 73.5 cm。シカゴ美術館

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『ヴォワザン村の入口』1872年。油彩、キャンバス、46 × 55.5 cm。オルセー美術館

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『自画像』(1873年)

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『ポントワーズのオワーズ川のほとり』1872年。油彩、キャンバス、35 × 91 cm。個人コレクション

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『果樹園』1872年。油彩、キャンバス、45.1 × 54.9 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。第1回印象派展出品

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『ポントワーズの眺め』1873年。油彩、キャンバス、55 × 81 cm。個人コレクション

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『白い霜』1873年。油彩、キャンバス、65.5 × 93.2 cm。オルセー美術館。第1回印象派展出品

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『マチュランの庭、ポントワーズ』1876年。油彩、キャンバス、113.35 × 165.42 cm。ネルソン・アトキンス美術館。第3回印象派展出品

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『赤い屋根、ポントワーズのサン=ドニの丘、冬の効果』1877年。油彩、キャンバス、54 × 65 cm。オルセー美術館。第3回印象派展出品

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『ウジェーヌ・ミュレの肖像』1878年。油彩、キャンバス、64.4 × 54.3 cm。スプリングフィールド美術館

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『キャベツを収穫する人々』1878-79年頃。ガッシュ、シルク、16.5 × 52.1 cm。メトロポリタン美術館。第4回印象派展出品か

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『木陰の風景、エルミタージュ』1879年。エッチング

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『ロシュシュアール大通り』1880年。パステル、紙、59.9 × 74.2 cm。スターリング・アンド・フランシーヌ・クラーク美術館

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『カフェ・オ・レを飲む若い農婦』1881年。油彩、キャンバス、65.3 × 54.8 cm。シカゴ美術館。第7回印象派展出品

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『田舎の幼い女中』1882年。油彩、キャンバス、63.5 × 53 cm。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

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『ルーアンのナポレオン埠頭』1883年。油彩、キャンバス、54.3 × 64.5 cm。フィラデルフィア美術館

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『リンゴの収穫、エラニー』1888年。油彩、キャンバス、61.0 × 74.0 cm。ダラス美術館

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『部屋の窓からの眺め、エラニー』1888年。油彩、キャンバス、65 × 81 cm。アシュモレアン博物館。第8回印象派展出品

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『チャリング・クロス橋』1890年。油彩、キャンバス、60 × 90 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)

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『2人の若い農婦』1891-92年。油彩、キャンバス、89.5 × 116.5 cm。メトロポリタン美術館

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『オクターヴ・ミルボーの庭、テラス、レ・ダン』1892年。油彩、キャンバス、73 × 92 cm。個人コレクション

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『ル・アーヴル広場、パリ』1893年。油彩、キャンバス、60.1 × 73.5 cm。シカゴ美術館

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『ルーアンのボワエルデュー橋、日没、霧』1896年。油彩、キャンバス。ルーアン美術館

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『夜のモンマルトル大通り』1897年。油彩、キャンバス、53.3 × 64.8 cm。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

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『テアトル・フランセ広場とオペラ大通り、陽光、冬の朝』1898年。油彩、キャンバス、73 × 91 cm。ランス美術館

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『ベルヌヴァルの眺め』1900年。油彩、キャンバス、73.0 × 92.1 cm。ノートン・サイモン美術館

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『テュイルリー庭園、朝、陽光』1900年。油彩、キャンバス、73 × 92 cm。イスラエル博物館

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『ルーヴル美術館、午後、雨天(第1シリーズ)』1900年。油彩、キャンバス、66.7 × 81.6 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)

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