英語偏差値31からフランス語通訳になれた理由〜「自分に合った言語」を選ぶことの大切さ
新年のご挨拶
新年あけましておめでとうございます。翻訳家の平野暁人と申します。どなたさまも良い年末年始を過ごされましたでしょうか。
わたくしは年末から風邪に臥せり、年が明けてからはインフルエンザに倒れ、と世の中の不幸を一身に引き受けるが如く弱り果てておりました。だがしかしそのぶん紅白の氷川きよしが完全に解き放たれていたのでよしとします。ってなんの話だ。
おかげでnoteの更新もすっかり滞るありさま……。でも、休んでいるあいだにも「スキ」や「フォロー」をたくさんいただいて、ありがたい気持ちでいっぱいです。気を取り直して今年も(なるべく)おもしろくて(まあまあ)ためになる言語の話を書いていこうと思っていますので、よろしくお願いいたします。
枕
さて、そんなこんなでちょいと油断してるあいだに年の方がうっかり明けちまったわけですが、人間、年が新しくなるってえと気持ちの方までなんとはなしに改まるもんでして、今年はいっちょなにか新しいことに挑戦してみよう、はたまた、先にやりかけて放り出したあれを今年こそやり遂げてみせようじゃあねえか、なんてな具合に張り切りがちなんですな。
で、アタシみたいなもんのところにもですね、そういう、ちょっと年のひとつやふたつ明けたくらいで生まれ変わったような面してはばからねえお調子者……もとい、新年にふさわしい清廉な心がけの立派な御仁が相談に来なさるんで、
「よぅご隠居、 おいら今年は外国語のひとつも始めてみようとこう思ってるんだが、いざやるってえと何語をやったもんだか皆目見当がつかねぇんだ」
……しまった。病をおして出張った新宿末廣亭の初席が楽しすぎたせいで噺家口調が抜けないぞ。こいつぁいけねぇや、じゃなくて困ったな。読みづらい上に内容が入ってこないじゃないか。だいたいご隠居って誰だ。
ともかくそういうわけで(どういうわけだ)、外国語というのは新年もしくは新年度に始めたくなるものの代名詞に挙げられるみたいです。あ、あとダイエットね。
「やりたい言語」がわからないときは
「何語をやればいいかわからない? 自分がやりたい言語をやればいいだけでしょ」
このnoteを読んでくださっている方なら、そんな風に首を傾げる方も少なくないかもしれません。確かに、何事も自分がやりたいものをやるのがいちばんですよね。
ただ、「明確にこれがやりたい!というのはないけど……なにかはやってみたい」というくらいのモチベーションで事を始めようとする人は世の中、意外に多いもの。というか、趣味選びというのはそもそもその程度で十分のような気もします。
とはいえ、こういう漠然とした相談に答えるのはそう容易ではありません。なにしろ世界にはおよそ7000もの言語があるのです。
そのうち現実的に日本で学習できる言語(≒すくなくとも辞書や自習用教材が市販されているもの)だけに絞ってみても、日本を代表する語学専門出版社の雄・大学書林が実に113もの言語に対応した学習関連書籍を出版してくれています。すごいぞ大学書林!えらいぞ大学書林!ありがとう大学書林!(心からの感謝と応援)
かといって、「べつに何語でもいいと思うよー」と突き放してしまうのも、せっかくやる気モードになってくれている近未来の語学学習者に対して冷たすぎる気がします。そこで私は、そんなとき、こう答えることにしています。
「自分にできそうな言語を選んでやるといいですよ!」
……あっ!
たいへん!!
今年もさっそく読者の怒りを買った気がする(心配)!!!
ていうか今年もこのパターンでいくのか?
いい加減飽きられてるんじゃないか??(邪念)
「自分にできそうな言語」とはなにか
聞いてくれ怒れる聴衆よ。そしてこのアテナイに住まう神々よ。なにいってんだ。えーと、わかってます、みなさんの言わんとすることは。「自分にできそうな言語」なんて、そんなものやる前からわかったら世話ないだろ!ってことですよね。
ではこう言い換えてみたらどうでしょう。
「自分にできそうな言語=自分に合った特質をもつ言語」
……あっ!
まだ怒ってる人がいる気配がする!!
むしろ前からこのnoteを読んでくれている人が怒声をあげている気がするぞ!!!
「おまえ、前にどんな学習法が自分に合っているかは(ほとんどの場合)そう簡単にはわからないって書いてたじゃないか!」
そう、確かに以前、「語学は質より量である」と題した記事でそのように記しました。そして思いがけずバズって小躍りしましたとも(ホクホク)。
しかしあれは「自分に合った学習法を判別するのはすごく大変。それより愚直に量をこなす方が大事」という、あくまでも学習法に限った話。
翻って、ここでいう「自分に合った言語を選ぶ」というのは「自分の長所がより活きるのは?」「自分にとって快適と思える環境で学べるのは?」「自分がかっこいいと思う特徴を備えているのは?」といった視点に立って、自分と相性の良さそうな言語を見極める、ということなのです。この説明で伝わるでしょうか(不安)。
偏差値31からの出発
さあ、いつもながら長くてくどい前置き(←自覚はある)はこのくらいにして、この辺で具体的な例を挙げてお話ししてみようと思います。
他でもない、私自身の話です。
こういう仕事をしているとよく「平野さんは昔から成績が良かったんでしょ?」と言われますが、折にふれてちょこちょこ書いてきている通り、私は小中高と常に底辺街道を這いずり回っている子どもでした。
大げさでもなんでもなく、中3当時の成績表は音楽を除きほとんど1。ね、本物でしょ(なぜかドヤ顔)。3者面談では担任から「オタクノオコサンニハイレルコウコウハアリマセン」というエラーメッセージみたいな宣告を投げつけられました。
なかでもいちばん苦手だったのが英語です。中学1年で人並みのスタートを切ったはずが、S(主語)V(動詞)O(目的語)のOあたりで早くもつまずき、中2の2学期を迎えるころには全て謎の呪文にしか見えなくなっていたのを覚えています。
なんとか滑り込んだ高校でも成績は1学年約230人中223位ぐらい。しかもうち3〜5人は不登校ですから、非不登校児の中の王者です。いえ、不登校児でも試験だけ受けに来る子もいたはずなのでむしろ無差別級王者だったかもしれません。
高校の成績に至っては「0」をもらいました。10段階評価なのに「0」。なぜなら「0〜9」という謎過ぎる学校だったから。最低はゼロ。最低は無。そして最高でも「9」。なんか惜しくてどうにも悔しい「9」。ま、もらったことないけど。
みなさんにわかるでしょうか。登校しているのに「0」をもらう生徒の気持ちが。学校に来てるのに「0」。出席してるのに「0」。存在しているのに「無」。どう考えても生徒のメンタルにひとつも寄与しない制度です。誰が考えたんだ。
そしてそんなある日の駿台模試で手にした英語偏差値「31」の栄光。
「英語を制するものは受験を制す」なんて予備校の訓示のようなことは口にしたくありませんが、そんな、不登校児よりも存在を否定されていた実在系劣等生のわたくしにサクラサクわけもなく、1浪して受けた大学もみなことごとく不合格。
それでも「どうしても働きたくな……大学に行きたい!」という一念で首都圏の夜間学部を片っ端から受け、かろうじて引っかかったのが文学部フランス文学科だったのでした。
どうだ。まあまあ本物の底辺だろう。えへん。
ぼんじゅーるとオレ
こうして、めでたく働かずに済……大学で学べることになった私ですが、正直なところ、フランス語にもフランス文学にもなんの興味もありませんでした。
なにしろ昔から本屋さんへ行ってもフランス文学だけは(なんか恋愛の話とか多くて軽そう)と避け、ドイツ文学(重い)やロシア文学(寒い)や日本文学(湿ってる)ばかり読んでいたほどなのです。成績は悪くても本は読んでいたのさ。
当然、必修のフランス語などやる気になるはずがありません。「ぼんじゅーるとか恥ずかしくて言えねーし(笑)」と、頭から小馬鹿にして開き直る始末。
だいたい中学で英語につまずいて以来、語学全般に心からの憎しみを注いできた自分に、いまさら外国語ができるようになる理由がない、と思い込んでいました。
ところが、あったのです。
私にもフランス語ができるようになる理由が。
否、私にこそフランス語ができるようになる理由が。
音と相性
それは入門の授業でabcを習ったときのことでした。習うといっても綴りは(一部の記号を除いて)英語のそれとほぼ同じですから、教室では自ずと発音練習に重きが置かれることになります。
実際、フランス語の「e」「r」「u」などは大半の日本人には難しいとされる音。まず先生についてみんなで何度か読んでから、出席順で今度はひとりずつ。美しくも奇妙な独特の音を、つっかえつっかえ再現しようと奮闘する学生たち。
やがて番が回ってきて緊張しながら読み始めた私に、びっくりすることが起こりました。「r」をはじめあらゆる音が、どれも不思議なほどにすんなり再現できるではありませんか。ついさっき、生まれて初めてまともに耳にしたばかりの、まったく知らない音だというのに。
そうして最後まで読み終えた私に、先生はため息交じりで一言もらしました。
「……すごい!」
そうです。私は「フランス語の音」と極めて相性の良い人間だったのです。
そしてこのことは私に、その後の人生を左右するほどの決定的な自信と、フランス語学習に対する強靭なモチベーションとを与えてくれることになります。
音と偏愛
と、ここで鋭い読者の方はこんな風に思われるのではないでしょうか。
「フランス語の音とだけ相性が良いなんて、そんなことある? 英語の発音だって良かったんじゃないの?」「そうだとすると、発音の良さが英語学習のモチベーションにつながらなかったのはどうして?」
厳密にいえば、それぞれの言語にそれぞれの音がありますから、フランス語とは相性が良いけどインドネシア語とは良くない、というようなことは当然ありえます。ただ、そうはいっても発音の得意な人はどんな言語でもある程度うまく発音できると考えて差し支えないでしょう。
そして私自身、苦手な英語でも発音だけはそこそこ良かったような気もします。もうよく覚えておらんがのう。遠い昔のことじゃわい。
それではいったいなぜ、中高6年の長きにわたって(いちおう)学んだ(はずの)英語では自分の発音センスが学習のモチベーションとして全く機能せず、その同じ能力がフランス語では決定的な要因として作用したのか?
ここまで書き連ねてくればもう明らかだと思います。
それは、フランス語が徹底的に「音」を偏愛する言語だからです。
音と価値
「フランス語ってなんか、音が素敵っていうイメージです」
初対面の人に職業を告げただけでそう言われることも少なくないほど、「フランス語=音のうつくしい言語」というイメージは広く一般に流布されています。それはもう、逆にちょっとムカつくほどです。
そして実際に、フランス語に関わる人たちの大半もまた、この「フランス語=音」という認識、もっといえば「発音至上主義的な価値観」を大なり小なり共有していると考えてよいのではないかと思います。
私もこれまで、映画やシャンソンがきっかけでフランス語の響きに魅せられ学び始めた、さらには教員になった、移住したという人たちをたくさん見てきました。
さて、我々極東の島の住人はあまねくそう思っているわけですが、それでは本国フランスの人々はどうなのでしょう。
みなさん、もしかして、フランス人はフランス語が大好きだなんて思っていませんか? フランス語こそが至高の言語だと考えているとか、発音の美しさを鼻にかけているとか、フランス人にそういうイメージを持っているのではないでしょうか。
でも実際のフランス人はですね、そのイメージのまんまです。
まんまなのかよ!!!
はい。申し訳ないですがそのまんまです。奴らときたらものすごい高確率で「フランス語最高」って思ってます。そして口に出して言います。むしろすぐ言います。
あと、ちょっと油断してると「君はフランス語ができるのになぜ英語が苦手なの? 英語なんてフランス語よりずっと簡単なのに」とか言いやがります。いやいや誰が決めたんだそんなこと。しかもそういう自分はもっと英語ができなかったりするし。なんなの? すごく高度なギャグなの? それともチーズの食べ過ぎなの?
だいたいおまえら別に努力してフランス人になったわけじゃないだろが!たまたまフランスで生まれ育っただけのくせしてなんでそんなにむやみに出自を誇るんだ!これだから京都人は嫌なんだ!
……あれ?
おかしいな。せっかくイイ話をしてたはずなのにいつの間にかフランス野郎を罵倒したあげく京都人と玉突き事故を起こしてるじゃないか。ま、フランス人と京都人のことはいくら悪く言ってもいいってWHOも言ってるからな(言ってません)。
えーと、とにかくですね、フランス語にまつわる世界で「音」がそれほどに特権的な地位を占めているということは、その「音」に秀でている学習者もまた、自ずと特権的な地位を占めやすいということなんです。
平たくいうと、発音がいいとすごくかっこいいと思ってもらえるってことです!
うおおおついに言ってしまったー!感じ悪かったらごめんなさい!先に謝っておくので先に許しておいてください!あと京都の人もさっきはごめんなさい!あとフランス人には謝りません!
音と特権
発音がいいだけですごくかっこいいと思ってもらえる。
これは決して大げさな話ではありません。なにしろフランス語を学ぶ人たちは皆、ほとんど例外なく、少しでも美しい発音で喋りたいと思っています。ですから際立って発音に優れた人がいると、尊敬や憧れの眼差しを注いでくれます。
また、フランス語を教える人たちも、多くは少しでも美しい発音で喋らせたいと思っています。特にネイティヴ講師はその点に過剰なほど心血を注ぎます。ですから際立って発音に優れた学生がいると、目を輝かせて誉めそやしてくれます。
もちろん、何語であれ良い発音で話すに越したことはありません。しかし、フランス語ほど「音の美しさ」をアイデンティティにまで特化させ、前面に押し出し、かつそれが周囲からも認知されている言語はやはり少ないのではないでしょうか。
そしてそのことが、私のように発音だけが取り柄の学習者をどれほど調子に乗……励まし、勇気づけてくれたことか。勉強に関することでみんながそんなに評価してくれるなんて生まれて初めての経験です。やる気を出さないはずがありません。
私はいつも自分に言い聞かせていました。
このままがんばって続けよう!
たとえどんなに成績が悪くても!!
ん?
えっ?
発音に開眼したのに、やっぱり成績は悪いまんまなの??
音と論理
前段までのあらすじ:実在系非不登校劣等生だった平野暁人は大学に入り、たまたま始めたフランス語の発音に開眼するが、成績は悪いままなのだった(完)
って、(完)じゃない!
断じて(完)ではないけれども、発音に開眼してフランス語が好きになってからもしばらくのあいだ、私の成績は決して奮いませんでした。まじめに予復習して、宿題をやっても、テストはいつも中の下。下手すると下の中。
なぜなら発音の良さといわゆる「学力」は別物だから。
なんていうのかな、歌が得意な人はちょっと曲を聴けばすぐに節を覚えてうたいだすでしょう? 発音も、耳と勘の良い人ならなんとなーくネイティヴの真似をすれば良い音が出せてしまう。そこに、いわゆる学力は全く必要ないんですね。
一方、外国語を習得するためには、なんといっても正確な文法知識が不可欠です。基礎的な文法を正しく理解し、なんども反復しながら確実にその言語を支えるシステムを身につけていかなければ、「綺麗な音」だけ出せたってなんにもなりません。
さて、そこで私です。
偏差値31の私がですよ、S(主語)V(動詞)O(目的語)のOが克服できず自動詞と他動詞の区別がつかないまま大学生になったこの私が、ちょっと言語が変わったくらいでそう簡単にできるようになるわけないでしょうが!(逆ギレ)
というわけで、「やたら発音がよくて秀才感ふりまいてるのにテストやらせるとぜんぜんダメ」という変てこな生きものがめでたく誕生したのでした。とほほ。
変てこクリーチャー期という試練
私のこの「変てこクリーチャー期」は、意外にも(?)それからしばらくの間、かなりの長きにわたって、なんと年単位で続くことになります。
正確にいうと、耳と勘を頼りに見よう見まねで喋るのでスピーキングの能力はぐんぐん伸びるのですが、体系的な知識が欠けているため文法のテストはいつも惨敗。むしろ「流暢に喋るのにテストやらせるとぜんぜんダメ」というモンスターに進化しただけでした。がおー。
文法がダメだから長文読解の試験も当然ダメ。
あ、ついでに言うとよく「自分は語彙が足りないから長文が読めない」と嘆いている人をみかけますが、あれは勘違い。いくら語彙が豊かでも、正確な文法知識に基づいて論理的に読み解かなければ、知ってる単語同士を無理につなぎ合わせて誤読するのが関の山です。これ、すごく大事なことなのでよーく覚えておいてくださいね。
喋る=アウトプットが得意なら作文は書けるかというとこれもダメ。なぜならフランス語は(というより大抵の言語はそうだと思いますが)話し言葉と書き言葉が大きく異なるから。答案用紙にふだん喋るときの言葉遣いで書いたら完全にアウト。
いいですか、作文のテストというものはですね、
「昨日は起きたのが遅かったので学校に行きませんでした」
と書くべきであって、
「昨日起きてうわ時間やばってなってもう今から学校とかないわっていうww」
と書いたら点はもらえないわけです。
ていうかそれ以前に「起きたのが遅いから学校に行かない」ってどういうことだ。わたくしの高校時代のスタンスをそのまま反映させてみたまでですがなにか? そんなことしてたら成績が上がるわけないですよねごめんなさい(時を超えた反省)。
ともあれそんなわけで、フランス語の「音」と幸せな出会いを果たした後も、私はまだまだ語学劣等生から抜け出すことができずにいたのでした。
変てこクリーチャーのプライド
どんどん複雑になってゆく文法。目的語だけで手一杯なのに目的補語だの属詞だの独立節だのと際限なく増え続ける呪文。「君は発音もよくて会話もうまいのに、なんで読解の点は最下位なの?」と首をかしげる先生たち。
そんな長い混乱期に苦しみながらも投げ出すことなく続けられたのは、ひとえにフランス語の「音」とその価値が味方してくれていたからだとつくづく思います。
どんなにテストの点が悪くても、読解の授業で自分ひとりだけ置いて行かれても(ちなみに人並み外れた遅読であることも読解の苦手な理由のひとつでした)、「自分は誰よりも発音がいいんだ」といつも自分に言い聞かせていました。
「音に関してなら誰にも、先生にだって負けない」というプライドを持ち続けていられたからこそ、受験英語での失敗を機に心に深く根を張っていた語学コンプレックスを断ち切って、新しい言語学習の可能性に賭けることができたのです。
もしもフランス語じゃなかったら?
一方でまた、こんな風に考えたりもします。
もしもあのとき、フランス文学科ではなくドイツ文学科やロシア文学科に受かっていても、自分は同じように語学を続けることができていただろうか、と。
断っておきますが、ドイツ語にもロシア語にもそれぞれの美しさがあります。決して発音の美しくない言語の例として挙げたわけではありません。ただ、フランス語と比べると、音に対する執着、それこそ「偏愛」が見受けられないとは思います。
もしも、「音」を偏愛し、「音」しか取り柄のない学習者を他の誰よりも賛美激励してくれるフランス語でなかったら、自分は英語時代に拗らせたコンプレックスに呑み込まれたまま、人生に新たな挫折の記憶を加えただけだったのではないか。まして、イタリア語や韓国語にまで挑戦するなんて夢のまた夢だったはず。
まがりなりにも語学の専門家として活動できるようになったいま、自分にできそうな言語、つまり自分の強みをいちばん活かせる言語、自分の良さを引き立て輝かせてくれる言語を選ぶことの大切さを、改めて、いっそう実感しています。
終わりに:「できそうな言語」をみつけるには?
なんということでしょう。認めたくはありませんが気づけば8,000字を超えています。我ながら胸がざわつきます。なんだろうこの気持ちは。そうだ、いきなり美空ひばりのAIを見せられたときのあの気持ちだ。すみません言い過ぎました。
ともあれ今回は、「自分にできそうな言語=自分に合った特質をもつ言語」をみつけることが、語学学習を成功させるうえでいかに大切かという話を、主に私の恥部……実体験をもとに書いてみました。
たぶん、みなさんのなかには「たまたまフランス文学科に入っただけなんだから、みつけたとか選んだとかいうのとは違うんじゃない?」と思う人もいるはずです。
でも、大学は義務教育ではありませんから、英語と違って投げ出そうと思えばいつでも投げ出せました。にもかかわらずフランス語の「音」との相性を自分で見極め、信じた末に、続けることを「選んだ」という実感があります。
それから、今回の記事を読んで「結局は才能がないとダメってこと?」「信じて、それに託して一点突破できるほどの才能に恵まれた人の方が少ないと思う……」と、逆にがっかりしてしまう人もいるかもしれません。
そういう人には、正直に、はっきり言っておきます。
確かに、私はまがりなりにもプロになれた人間なので、世間の多くの学習者よりもいくらか才能に恵まれた部分もあるかもしれません。
でも、所詮は世の中に数多いる通訳・翻訳家のひとりです。別に国連の会議やカルロス・ゴーンの同時通訳を担当するようなVIPではありません。毎日辞書を首っ引きにして、覚えた単語をすぐに忘れて、翌日も引き直したりする普通の人間です。
ですからみなさんも「才能」というほど強い言葉で思い詰めずに、まずは「長所」とか「強み」とか「取り柄」くらいの軽い感覚で、自分と相性のよさそうな言語、自分に「できそうな言語」ってたとえばどういう系統かな?というのをぼんやりとイメージするところから始めてみてください。
さあそれでは、いよいよ「できそうな言語」の具体的なみつけかたの話です!
と、ここで9000字を超えました。さすがにお時間がきたようです。本当はここからまたしても実体験をまじえてさらなる漫談、じゃなかった楽しい語学トークを展開する気満々だったのですが、ひと息いれて稿を改めようと思います。
それにしても今回の原稿を書きながらなにが不安だったかって、文字媒体でこんなに「音」の話ばっかりしていいのかってことでした。「美しい発音」とか「高い再現能力」とかテクスト上でいくら書き連ねても伝わりようがない。ラジオ番組でジェスチャーゲームしてる気分。完全なる言ったもん勝ちです。
とはいえ、そこは読んでくださるみなさんに私を信じていただくほかありません。なにしろ私の方も信じているのですから。そうです、みなさんなら必ずや「スキ」を押してからブラウザを閉じてくれるだろうということを!
ではまた、遠からずお会い(?)しましょう。動画全盛のこの時代に1万字近いテクストを最後までお読みくださり本当に、本当にどうもありがとうございました!
平野暁人
訪問ありがとうございます!久しぶりのラジオで調子が狂ったのか、最初に未完成版をupしてしまい、後から完成版と差し替えました。最初のバージョンに「スキ」してくださった方々、本当にすみません。エピローグ以外違わないけど、よかったら最後だけでもまた聴いてね^^(2021.08.29)