エッセイ| 遠慮しないをひとつずつ。
先日、6年ぶりに親友にあった。
親友は私が大人になってからの友人で、
「もし、余命一か月とかで会いたい人は誰?」と考えた時に浮かんだのは、彼女だった。
夫のいうことは、心に落ちてこなくとも、親友のいうことはなぜか渇いた岩盤に染み込むように違和感なく受け入れられた。
私にとって彼女は唯一の親友だと思っている。
その彼女にずっと会いたかったのにパンデミックがあり、お互いの生活があり、私は会うことを躊躇し、遠慮し続けた。
この6年間、相手に負担をかけてしまってはと思うと会えなかった。
待ち合わせの場所には多くの外国人観光客がいた。
見つけられないんじゃないかと思って、「ここだよ」と写真を送った。
そうしたら隣にも同じスポットがあるじゃない。
これじゃ見つからないかもと、今度は、祝日の日の丸旗の前の写真を送る。
遠くから近づいてきたジーンズにTシャツ、ビルケンシュトックのサンダル、ショートボブの人は迷うことなく、私をとらえて手を振った。
変わらずの彼女。
目の前にきて「そんなに送ってこなくっても大丈夫だよ」と笑顔を見せる。
会った瞬間、安堵した。
そっか、そうなのか。そういう時、目の前のことしか見えなくなってしまう私にはわからない感覚。
親友は、おでこのあたりに月日の流れを感じたけれど、本質は彼女のままだ。
会って話す。
家族のこと、どんな風に過ごしてきたかとか、人といっしょのことをすることが苦手なこと。ほしいモノとか、好きなものにこだわりがあることや、みんなができることができないこととか、いろんな話をした。
胸がいっぱいで食べきれないバジルのカッペリーニはムリせず残した。
親友のことずっと2コ下くらいに思っていたけど、聞いたら5歳以上年下で「若くてゴメン」と親友が笑う均整のとれた白い歯並びが彼女を表していて、その笑顔が好きで私もつられて笑った。
そういうこと自然すぎて全然気にならなかったから聞いたことがなかった。
何でも知っているから親友なんじゃないと思った。
なんにも知らなくても、会っていなくてもお互いがそのままでもいいんだって思える相手だってことが私には大切なんだと思った。
別れ際、東京駅の雑踏で彼女がいった。
「恨んでいいよ。恨んでよかったんだよ。私なら恨む」と
そして続けた。
「もう、死んじゃったじゃん。こんないい方悪いけどさ、親いなくなってよかったじゃん。亜希はさ、もう自由なんだよ。自分が自分でいられないなら離れていいんだよ。自分の違和感とか、自分の好きをたいせつにしていいんだよ」
相手に何かを期待した時点で関係は壊れてゆく。
私はずっと誰かの期待に応えようとしてきた。そんなのほんとは必要なかったよね。
皿一枚洗えなくなり、買い物で何を買えばいいのかも、何が好きで、何者かすらわからなくなってしまった私に
「自分をキライにならないで、亜希のすきを優先していいんだよ。亜希のままで生きていいんだよ」と彼女がいった。
彼女と別れて、のどが渇いていることに気づく。フレッシュジュースが飲みたい。
DEAN & DELUCAの葡萄と無花果のジュースを選ぶことに迷わない。
少し青臭く秋の瑞々しさを透明な容器からストローで啜った。
青豆ノノさんのnote「人生を共に歩んでくれる友がいる。」(エッセイ)が友人に会うきっかけと勇気をくれました。
ノノさんのこのnoteを読んで私は泣きながら親友に連絡したのでした。
ノノさん素敵なnoteをありがとうございました。
【お知らせ】
いつもご覧いただきありがとうございます。
noteやXを俯瞰してみたいと思い、ここ数日、デジタルデトックスをしていました。
結果、気がついたのは距離が近いのが苦手みたいです。
きっと、わたしは情報量を人より多く取り込んでしまうため、
しんどくなってしまったり、物事に対して何倍もの時間が掛かってしまうようです。
それで、
・ゆっくりなペースで生きよう。
・いまは何もしないもありかな。
にたどり着きました。
スキやいいねのお返しができていません。
先に謝ってしまいますが、ごめんなさい。きっとこのペースだとできそうにないです。
できないこととか、わたしのうちがわのことです。
うまく言えませんが、そんな感じです。
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