作家、クッツェー先生との出会い

199705クッツェー先生

(c)Akio Fujiwara 1997

 毎日新聞の特派員として南アフリカに滞在中、ひまを見つけてはアフリカの小説を読んだ。アフリカ文学を日本に紹介しようと、気になる作家を訪ね、インタビューを重ねた時期もあった。

 だが結局、多くの作家を網羅する企画を放り出してしまった。最初に好きになった南アの作家、J・M・クッツェー(1940~)と並ぶような作家にめぐり会うことがなかったからだ。

 性別、人種、国籍を織り交ぜ、10人の作家を取り上げる・・・。そんな枠に長く捕らわれていた自分が馬鹿らしく思え、最終的に私は、クッツェーひとりの作品を題材に、アフリカを考える企画を新聞に書いた。

 それにしても、このケープタウン出身の作家に、なぜ惹かれたのだろう。最初に彼の作品を読んだのは90年代の初め、まだ、私がアフリカと何の関わりもないころだった。作家の関川夏央氏がテレビで彼の「敵あるいはフォー(原題、フォー)」を取り上げたため、邦訳を手にしてみた。

 冒頭の数行で引き込まれた。ロビンソン・クルーソーが暮らす離れ小島にたどり着いた中年女性の独白。着想に驚かされた。そして数ページを読んだだけで、主人公の内面世界が自分に根づいたような錯覚さえ覚えた。

 ひとり夕陽を眺めるのを日々の糧とし、日常の繰り返しの中で望郷さえも抱かなったクルーソー。その孤高さが、ずいぶんとリアルに伝わってきた。読後何年たっても、ほんの数行再読すれば彼の作品世界に立ち戻れる。読者に取りつくような作品だった。

 数年後の95年、南アに住むことが決まると、真っ先に彼の名を思い出し、原書を読みあさった。アパルトヘイト(人種隔離)下、米国に亡命した娘へあてた、末期ガンの老母の手記(「鉄の時代」)。被差別者の象徴のような寡黙な主人公の目を通し、国家、社会に囚われて生きる個人の自由について描いた「マイケルK」。息子を失う絶望、喪失感に徹底的に対峙するドストエフスキー(「ペテルスブルグの文豪」)……。

 ある時、私は修道僧のような印象のクッツェー氏にその稀有な発想や、多彩な主人公の内面描写の卓抜さを指摘した。すると氏は少し困ったような顔で、執筆方法を打ち明けてくれた。

 毎朝、2、3時間原稿を打ち、丸1年かけ草稿を仕上げる。次に丸2年ほどかけそれを編集し、200ページほどの短い作品に仕上げるという。

 様々な舞台を設定しながらも、クッツェー氏は自分自身を書いている。そう感じた。

 あからさまな不平等、差別、暴力……。そんな社会で育った、過敏で利発で、そして少し変わった少年。作品には氏が子供時代から抱え続け解消することのできないテーマが流れている。それは答を見出せないアフリカの問題にも通じる。

    (2001年4月16日執筆、発表先不明、おそらく未発表)