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【短編】 太鼓

 母は、わたしのことをキレイだと言っていた。でもわたしには確かめようがないし、興味もなかった。わたしは生まれつき目が見えないのだ。ある人は、目の見えない世界とはどんなものか知りたがる。そんなときわたしは、「あなたと同じですよ」と言うことにしている。でも大抵の人はピンとこない。誰でも自分の見ている世界や、知っている世界こそが本物の世界だと思っている。わたしにとってもそれは同じで、あなたと何も変わらない。
 大学生の頃、わたしはよく図書館へ通っていた。点字の本がたくさん置いてあったからだ。それに、図書館に漂う本の匂いを嗅ぐと不思議と気持ちが落ちつくのだ。本は、人に読まれるのをただ待ち続けている。古い本になると、何年も人に読まれないまま、ページさえ開かれないまま、長い時間をずっと待ち続けている。わたしは点字しか読めないから、そんな古い本を手に取ることはない。でも本たちは古い友人のように、図書館に来るわたしを静かに迎えてくれているような気がするのだ。
 ある日、わたしはいつものように図書館で本を探していた。点字本のリストを指でなぞりながら本を選んだ。本の貸出を申し込もうと係りの人を呼ぶと、ふいに聞き慣れない若い男性の声が返ってきた。わたしは思わず息を止めてしまったのだが、その瞬間、澱んだ空気の流れが少しだけ変わった気がした……。それが彼とのささやかな出会いだった。
 それから図書館へ行くと、よく彼が対応してくれるようになった。彼が職員の人と話をしているのを傍らで聴いていると、どうやら彼も大学生で、最近になって図書館でアルバイトを始めたのだということがわかった。もっと楽しいアルバイトもあるだろうに、わざわざ図書館なんかでアルバイトをするなんて、と思ったが、きっと心が穏やかな人なのだろうと、わたしは勝手に想像した。

 しばらくして大学が夏休みに入ると、わたしは毎日のように図書館へ通った。彼は図書館の仕事にも慣れ、居心地よさそうに仕事をしているのが、わたしにもわかった。あるとき彼は、「毎日暑いですね」とわたしに声を掛けてきた。「ええ、そうですね」とわたしは返事をしたが、それ以上会話が進まなかった。
 その年の夏は本当に暑かった。わたしは次第に体調を崩し、外出を控えるようになった。それで結局、夏の後半は図書館からも足が遠のいていった。

 秋になり、暑さがやわらぐと、わたしは近所を散歩するようになった。道端の落ち葉を足で踏みながら、秋の風を顔で感じた。遠くから、太鼓や笛の音が聞こえてきたので、どこかでお祭りでもをやっているのだろうかと思い、しばらく耳を澄ませた……。昔まだ小さかった頃、わたしは父と母に手を引かれてお祭りに行った。初めは、綿あめを買ってもらいご機嫌だったが、お祭りの行列が近付くと、聞いたこともないほどの大きな音に怯え、おもわず泣いてしまった。わたしの小さな世界が壊れてしまうと思ったのかもしれない。今となっては、もう昔の気持ちまで思い出すことは出来ないが……。
 わたしは夏に体調を崩して以来、久しぶりに図書館へ行った。わたしに気付いた職員の女性が、しばらく顔を見なかったので心配したと、わたしを気遣ってくれた。わたしは事情を話し、もう大丈夫だからと言った。すると、それは良かったと彼女は言い、わたしに大きな封筒を手渡した。例の大学生の彼が、わたしに渡すよう職員の女性にことづけていたのだ。きっとラブレターよと彼女は言い、わたしを冷やかした。しかしよく訳を尋ねると、彼はしばらく前に図書館のアルバイトを辞めたのだという。きっと図書館を辞めるあいさつ代わりに、この手紙を書いたのだろうとわたしは思った。

 わたしは図書館から帰り、一息ついたあと彼の手紙を取り出した。封筒からは数枚の厚紙が出てきて、紙に触れると点字が打ってあった。

「〇〇さん、お久し振りです。しばらくあなたの姿が見えなくなったので心配していました。あなたがこの手紙を読む頃、僕は図書館にはいません。就職活動が忙しくなってきたので、残念ですがアルバイトを辞めることにしました。あなたとはほとんど話す機会がなくて本当に残念です。せめて手紙でもと思い、慣れない点字で文字を打っています。
 正直に言うと、僕は、点字コーナーで仕事をするのは気が進みませんでした。障がいのある方を見ていると気持ちが重くなってしまうからです。気を悪くしたらすみません。でも僕は、あなたに正直に話したいのです。僕はあなたが点字を指でなぞりながら、何時間も本を読み耽っている姿をなにげなく眺めていました。あるとき職員の方から、あなたが生まれつき目の見えない人であることを聞きました。僕はそんなあなたの境遇に心を痛めました。でもそれより、あなたの姿を見ていると、あなたの生きている世界がいったいどんなふうに感じられるのか、想像せずにはいられなくなったのです。僕は夜、ベッドに横たわり、真っ暗な部屋の中であなたの世界を想像してみました。暗くて、寂しくて、何もない――それはまるで、死の世界のようでした。僕は怖くなって部屋の明りを点けました。でもしばらくして、自分の想像が完全に間違っていることに気がつきました。なぜならあなたが、そんな、死を思わせるような、絶望するしかないような世界に生きているわけがないと思ったからです。あなたが図書館で時折みせる笑顔を見れば、それですべてが納得出来ました。あなたの世界には、きっと、キレイな花が咲いているのですね。そのことを、どうしてもあなたに伝えたかった」

 わたしはそっと手紙を置いた。遠くでは、賑やかな太鼓の音が響いていた。

(2007/11/18作)

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