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たからもの(4)

〝さよなら、さよならやさしいひと。律儀にお別れを言いに来た真面目なひと。薬指に光る呪いを隠そうともしない、不器用で卑怯な男。〟

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 土曜日の明け方、公衆電話からの着信があった。彼だろうか。しかしそうであるならば、土曜の明け方に着信があるというのは妙だった――彼からの連絡はきまって平日の午後七時頃であったのに。一度目の着信は、発信元が彼であるという確信が持てずに躊躇っているうちに切れてしまった。五分ほどおいて、再度携帯電話が震える。またしても公衆電話の表示。三コールほど待ってから、電話に出た。

「もしもし」
「もしもし、あぁ出てくれた。寝ていただろう。起こしてしまったね」

 聞き覚えのある低い声は、確かに彼のものだった。狂おしいほど求めていたはずの彼の声なのに、まるで知らない男の声のように聞こえる。言い表せない違和感が拭えなかった。

「いまから少し、話せるかな」

 いったいなにを話すというのだろう。

 何度も連絡したのに、どうして返事のひとつもできなかったの。いままでどこでなにをしていたの。こんな時間にいったいどうしたの。なぜ公衆電話からかけてきているの。言いたいことが次々と溢れだし、頭の中を駆け巡っては消えていく。

 電話口で住所を告げてから三十分ほど経った頃、来客を報せるインターホンが鳴り響いた。念のためのぞき穴から目を細めて外をうかがうと、見慣れた背広姿がそこにあった。

「あけてくれないか」
「……どうぞ」

 扉をひらいて招き入れると、彼は不遠慮に家の中を見回した。

「随分と広い家に住んでいるんだな。家族は、ひとりで住んでいるのか」
「そんなこと話しに来たんじゃないんでしょう」

 自分の声が思いのほか不機嫌そうに聞こえてはっとする。

 階段を上がり、自分の部屋へといざなうと、彼は何の迷いもなくベッドに腰を下ろした。あらかじめ用意しておいたインスタントコーヒーを淹れて差し出すと、彼は舌先でちろりと舐めて、すぐにコーヒーカップを膝元にのせた。

「君とのことがさ、彼女にバレてしまってね」
「彼女って」
「……妻に」

 妻。彼がその存在を口にしたのはこれがはじめてだった。

 彼の台詞をなぞるようにして声に出してみると、左手の薬指にかけられた呪いが具現化したような気がして寒気がした。見ないようにしていた彼の生活。彼の隣に当たり前の顔をして寄り添う見知らぬ女の姿が頭をよぎり、ぎゅっと目を閉じた。

「それで……」

 言葉に詰まる。それでどうするの。どうしたいの。終わらせたいの。いままでありがとうとでも言いにきたの。あぁ、どうしてわたしはいつも肝心なところで言いたいことをなにひとつ言葉にできないのだろう。

 そうだあのときだって、あのひとにわたしの秘密を打ち明けたあの日だって、いくらでも弁解はできたはずだった。でもいったいなにをどう弁解すればよかったというのだろう。大切なものはいつも失くしてしまう。失くしてしまうぐらいならせめて一緒に生きられるようにと呑みこんでしまうのはそんなに罪深いことなのだろうか。だって一緒にいたかった。どうしても、どうしても失くしたくなかったのだ。

 沈黙に耐えかねた彼が、すっかりぬるくなったコーヒーをひといきで飲み干した。ばつの悪い表情をしたまま黙り込むのはいつも男のほうだな、と思う。ずるいひと。そういえば、あのひともそういう癖があった。あのときだって、わたしを侮蔑したまま目も合わせずに黙り込んで、それから――。


 口火を切ったのはわたしのほうだった。

「ねぇ、最後におくりものをひとつちょうだい」
「……あいにく今日は用意がなくてね」
「じゃあ、最後に抱いてよ」

 惜別の意でも込められていたのか、愛撫はいつもより丁寧だったように思う。唇から左側の首筋、鎖骨、左胸、ヘソ、太腿とおりていく彼の舌先。代わり映えのない規則的な愛撫。一年と少しですっかり馴染んでしまった彼のかたち。

 わたしの中に埋まる彼の背中が姿見に映っている。必死に腰を打ち付ける情けない背中。わたしは、本当にこのひとをあいしていたのだろうか。白髪交じりの髪の毛も、年相応にゆるんだからだも、匂いも。すべてあのひととは違うのに。

 彼に跨り、つながったまま枕元に潜ませていたニードルで思い切り彼の耳を一息で突いた。うぅっと彼が小さく呻く。ばつん、という手ごたえとともに貫くと、彼がくれたオレンジ色のピアスの片割れをその耳にねじ込んだ。ぬるりとした血が、震える指先を汚す。

「いままでありがとう。でもきっと、もうさよなら」

 うまく眠れるようにともらっていた睡眠薬を数錠、彼がこの家へ向かうまでの間にすり潰した。コーヒーに混ぜてしまえば苦味もわからないと、かつて試してみたことがあった。

 繋がったままの彼が腹のなかで萎み、深い寝息をたてはじめたのを見計らってそっと彼に口づける。さよなら、さよならやさしいひと。律儀にお別れを言いに来た真面目なひと。薬指に光る呪いを隠そうともしない、不器用で卑怯な男。

 彼が寝息をたてはじめたのを確認すると、そっと彼の耳朶に触れた。わたしが呑み込んだオレンジ色のピアスの片割れがねじ込まれたそこは、熟れきった果実のように赤く腫れあがっている。起こさないよう静かに顔を近づけ、彼の耳朶をひとおもいに齧った。

 柔らかな耳朶はもっと脆いものだと思っていたのに、ぎりぎりと噛みしめても思うように噛み切れなかったのは誤算だった。力を入れた顎はがくがくと震え、こめかみのあたりがぎゅっと痛んだ。

 食いちぎられる痛みに顔を歪ませた彼が、抵抗するような素振りを見せたが、うまく力が入らないのか押しのける力は女のそれよりもずっと弱かった。彼を押さえつけながらようやく歯を埋め込むと、ばつんと弾けたような感覚をともなって、ざらざらとした鉄錆臭い味が口の中に広がっていく。あぁ、これは毒に違いない――吐き出してしまいそうになるのを必死にこらえながら、千切れた耳朶をピアスごと呑みこんだ。

 先のほうを失った片耳から血を流したまま眠る彼の寝顔。彼はこんな顔をしていただろうか。一年以上も一緒にいたのに、眠る姿を見たのはこれがはじめてだった。

 結局なにも知らないまま終わってしまった。互いを詮索しない関係が、永遠に続いてゆくはずなどなかったのだ。目を逸らしあいながら抱き合うだけの関係は、感傷に溺れるにはあまりに希薄だった。

 目が覚めたら彼はわたしのしたことに驚き、怖れ、慌てて部屋を出ていくのだろう。そうしてきっと二度と会うこともなく、わたしたちはあっさりと他人になるのだ。もっとも友人でもなく、家族でも恋人でもない関係だったわたしたちは、もともと他人よりも遠い存在だったのかもしれないが。

「……また失くしたの?」

 母の呆れたような声がどこからともなく聞こえてきたような気がして頭を振った。母はもうとうに死んだのだ。けれどその声は徐々に粘度を増して、際限なく音量を上げていくようにさえ思われた。

「どうせまた失くしたんでしょう」

 耳鳴りのように響き続ける母の冷たい声が耳元で渦を巻いていて、うまく立ち上がれない。よろめいて、床に転がっていたコーヒーカップに躓き、割れた破片でつま先を切った。シーツには彼の血が、床に敷いたラグにはわたしの血がそれぞれ赤く滲んでゆく。もう何もかもが疎ましかった。

「どうして失くしてしまうの?」

 わたしだって知りたい。いったいどうして失くしてしまうのだろう。何度も母に問われたけれど、幼かったころはおろか、大人になったいまでさえそれらしい結論にたどり着くことはなかった。

「ねぇ、いったいどこへやったの?」
「お父さんに怒られるのはわたしなのよ!」
「どこかおかしいんじゃないの?」
「何度言えば気が済むのよ、恥ずかしい」
「だらしのない子!」

 もう放っておいてよ!

 頬を張るために手を振りかぶる母の姿が見えた気がしてぎゅっと目を瞑りながら、わたしはあのかおりだまのことを思い出していた。すっかり広くなってしまった小瓶に一粒だけ残っていたあの美しい毒薬。気づいていながら、ずっと目を逸らしてしたのだ。失くさないようにと引き出しに仕舞い、小瓶のなかで転がしながら毎日大切に眺めていたあの粒には、もう甘い香りなど残っていなかったこと。

 幼かったあのころ、あれほど大切に思っていたはずの鉛筆キャップも、ガラス石も、大人になったいまとなってはただのがらくたに成り下がってしまった。たからものとしての役割を奪ったのは、まぎれもなくわたしだ。大切で、失いたくなくて呑み込んだはずなのに、自身の腹に眠らせてしまえば、もう二度と同じ姿で会うことなどできないのだから。欠けてゆく何かを埋めるためにしまいこんだはずなのに、埋まるどころか、脆く崩れてゆく。

 いったいいつからこんなに歪んでしまったのだろう。異物をたくさん呑みこんできたからだは壊れはてて、食べ物をろくに受け付けなくなっていた。きっとわたしはこんなことをしたかったはずではなかったのだ。どれだけたからものを呑みこんでも、からだは魅力を増すどころか頼りなく痩せ細り、腹だけがいびつに浮き出てゆく。醜いからだ。腫れあがった胃は熱を持ち、脈打つたびにずきずきと痛んだ。

 失うことへの恐怖から倒錯した行為にしがみつき、胃袋が悲鳴をあげても異物を腹に詰め込むことでしか自分を満たすことができなくなってしまったのはわたしの弱さだ。狂っていると気づきながらも向き合うことすらせずに逃げまどい、いったいなにがしたかったのだろう。

 なんだかもう疲れてしまった。するりと手を離れていくものたちへ愛情を向けることも、愚行と呼ぶべき行為に執着することも。ごめんね、もっと上手にあいしてあげられたらよかった。

 ベッドに横たわる彼の、左手の薬指に宿る愛のあかし。わたしが欲しかったのはまさしくそういうものだったのではないだろうか。失う恐怖におびえることも、異物を呑んだからだが示す拒否反応に苦しむこともなく、不確かな愛に目を逸らし、裏切りに目を瞑りながらも永遠を誓うことができるだけの傲慢にも似た強かさ。

 誰かの帰る場所になれたら、どれだけしあわせだったろう。

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