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たからもの(1)

〝大切なものは大事にしまっておかなくちゃ。〟


大切に思えば思うほど失くしてしまう少女は、やがてたからものを体のなかにしまいこむようになる――。

以前どこかに投稿しようとしてやめたやつを供養。箸にも棒にもかからなさそうな駄文なので、お暇な方どうぞ。何度かに分けて更新します。全部で二万文字弱です。

(1)

「会うたびにひとつ、なにかおくりものをちょうだいね」

 最初に交わした約束を、律儀に守ってくれるひとだった。

 使い古したオモチャのドレッサーの前に座り、別れ際に彼がくれた包みをひろげる。紙袋の口を留めていたビニールテープを剥がし中身を覗きこんでみると、中身はどうやらピアスのようだった。三百九十九円。値札を切ってもらうことさえしないのがいかにも彼らしい。

 見覚えのあるロゴマークは、駅前にできたばかりのファッションビルに入った女子中高生向けのアクセサリーショップのものだろう。制服姿の女性たちで賑わう様子を、いつかテレビで見た覚えがあった。二十代も半ばを過ぎた自分には不似合いだなと呆れながらも、スーツ姿の中年男が制服姿の女子高生の集団に混じってしどろもどろしている姿を思い浮かべて頬が緩む。

 直情的で浅はかで、感情や考えがすぐに顔に表われるひと。ぶっきらぼうで、都合が悪くなるとすぐに口をつぐむ。気の利く性格ではなかったが、そういうところも居心地がよかった。若い女性ばかりが集まるような店でこれを選ぶ彼はいったいどんな顔をしていたのだろう。彼と会うたびにひとつずつ、わたしのたからものは増えていく。

 ビニール包装を引きちぎり取り出してみると、中身はざらざらとした質感をしたオレンジ色のビーズがついたピアスだった。ピアスをつけるのはいつ以来だろう。胸まで伸ばした長い髪をざっくりとかき分け、指先で耳朶に開けた穴を探りながら、ねじこむようにして針先を埋め込む。塞がりかけていた穴が熱を帯びて、異物の侵入を拒んでいる。じんじんと鈍く痺れてゆくような痛み。全身の血液が左耳の先に集まり、耳元で鼓動を打っているようだった。

 背丈の合わないドレッサーへ向かって背中を丸めて首を傾げ、ピアスの埋まった耳を鏡越しに覗き込む。耳朶でその存在を主張する、着色された砂糖菓子のようなくすんだオレンジ色の粒。それは、幼いころ母に連れられて入った文房具屋で見つけたかおりだまによく似ていた。小さな瓶いっぱいに詰め込まれた甘い匂いを放つ美しい宝石。厳しかった母の手を引き、何度もねだってようやく手に入れた、幼いわたしのたからものだった。


 記憶のなかの母はいつも険しい表情をしていた。忘れ物や落し物が多く、たびたび母から叱責を受けていたわたしの幼少時代。きっとあのころから既に、わたしはどこかがおかしかったのだろう。

 物を大切にすることができないわたしの紛失癖は、もしかすると強迫観念のようなものだったのかもしれない。これだけは失くさないようにと強く思えば思うほど、きまってすぐにどこかへやってしまい、失くした場所はおろか、大切にしていたことさえうまく思い出せなくなってしまう。学校で配られたプリントも、図書館で借りてきた本も、お気に入りの傘さえも。ひとたび失くしてしまえばそれにたいする執着心も合わせて失くし、なにかが欠けていった空虚さだけが置き去りにされるのだ。

「また失くしてしまったの?」

 そんなわたしの悪癖を、誰よりもきつく咎めていたのが母だった。

 わたしを叱りつける母の姿は、あれから十五年以上経ったいまもたびたび夢に現れては、わたしを疲弊させていた。しあわせな夢を遮るようにして現れた母の、失望と落胆をはらんだつめたい視線。大袈裟な溜息には苛立ちの色が滲んでいて、膨らんでゆく母の怒りが爆発する瞬間を、わたしはからだを強張らせながら、いまかいまかと待ち構えている。焦点の合わない目を血走らせた母がなにかを叫びながら手を振り上げた瞬間、わたしは目を覚ますのだ。そうして同じ夢を何度見たことだろう。

 美しく聡明だった母。優秀だった父と豊かな家庭を築いた挫折を知らない母の世界で、世間からの失笑や憐憫の対象だったわたしの存在は唯一の汚点だったに違いない。

 担任教師からわたしの紛失癖について〝相談〟を受けて以来、母は外に出ることすら憚られるほど目に見えて塞ぎこむようになってしまった。客人を招き自慢の食事でもてなすことが趣味だった母は、その日を境に他人を家にあげることをやめた。学校から帰ってキッチンへ向かうと、それまで母が毎日のように焼いていた甘い菓子の代わりに、洋酒の空き瓶がいくつも並ぶようになっていた。

 比較的寛容な目で見守ってくれていたはずの父も、歳を重ねてもまったく改善の傾向が見られないわたしの悪癖に苛立ち、その矛先を母へ向けるようになっていった。

「お前がきちんとあの子を見ていないから!」

「躾を任せたのは間違いだったな!」

 叫び声に次いで、ガラスの割れるような音。

 部屋にひとり閉じこもり、階下で響いている父の一方的な怒声に耳をふさぎながら、まもなく訪れる母の気が触れてしまったのではないかというほどの折檻に身構えて過ごした時間。

 母がはじめてわたしに手をあげたのは、わたしが小学校にあがったばかりのころだった。きっとあのときの引き金も、わたしがなにかを失くしたことへの仕置きだったのだろう。家に帰るなりよろめくほどの勢いで張られた頬が、一晩中熱を持っていてうまく眠れなかったのを覚えている。はじめのころは頬を軽く張る程度だった折檻もみるみると激化の一途をたどり、小学生も半ばを過ぎたころには、失くしたものの数だけからだに小さな痣をつくるようになっていた。

「大事なものはちゃんと覚えていられるところにしまっておきなさい」

 三日月のチャームがついたシャープペンシルはドレッサーの引き出しに、帰り道で見つけた宝石のようなガラス石は筆箱のなかにしまっていたはずだった。幼かったわたしのたからもの。いとおしくて何度も手のひらに載せては、にんまりと見つめていたはずなのに、すぐにどこかへやってしまう。そうしてまた母を落胆させ、わたしはからだにひとつ痣を増やすのだ。でも、いったいどうしたら失くさずにいられたのだろう。

 たからもののひとつに、あのかおりだまがあった。無駄な物は買い与えない方針の母に繰り返しねだって、ようやく手に入れたたからもの。くすんだオレンジ色をした小さな粒がいくつも詰め込まれた子供の手のひらほどの瓶にはコルクキャップが嵌められていて、コルクを引き抜いた瞬間に甘くていじらしい香りが漂うのだ。

「どこへも行かないでね」

 小さな瓶にコルクキャップ。そして毒々しささえ感じるオレンジ色の歪な粒。それはまるで、当時憧れてやまなかったシェイクスピアの戯曲でジュリエットが飲んだ毒薬のようだった。飲めばひとたび仮死状態に陥ることができる、かなしい愛に引き金を引いた美しい毒薬。かおりだまの詰まった小さな瓶を眺めながら、ジュリエットの後を追って命を絶ったロメオに思いを馳せた。いつかわたしにも彼のように、わたしをあいして追いかけてくれるひとが現れるだろうか。

 毒薬は、光のようでもあった。行き場を失くしたふたりが導かれた、逃げ道という名のひとすじの光。いつしかわたしは、母に打たれたからだが痛むほど、かおりだまに強く思いを寄せるようになっていた。わたしの毒薬。大切な光。幼いわたしがつくりあげた、逃避のための唯一の居場所。

 失くさないように、失くさないように――噛みしめるように慎重に過ごしていたのに、ひとたび規律が乱れてしまえば崩壊は早い。

 紛失を恐れて部屋の外に持ちだすことのないよう気をつけていたはずだったのに、学校の宿泊行事に数粒だけ持ちだしたのをきっかけに、規律はあっさりと崩れてしまった。

 ハンカチの折り目に、筆箱のすみに。学業に関係のないものを持ち歩くことが絶対的な悪であった幼いわたしの小さな世界で、かおりだまを所持して歩くという禁忌を犯すその行為こそ、恍惚そのものであった。他人にはわからないほどの微かな香りをひっそりと持ちこむことへの罪悪感。誰の妨げも受けない、わたしだけの密やかなたのしみ。

 最後の一粒になるまではそう時間はかからなかった。

 外に出してしまえば恐ろしい速度で目減りし、ドレッサーの一番上の引き出しに大切にしまっていた小瓶の中身は次々と姿を消した。あんなにたくさんあったのに、いったいどこへやってしまったのだろう。筆箱やハンカチには甘い残り香が漂っているのに、ランドセルをひっくり返してみても見つけることができなかった。わたしはまた大切にすることができなかったのだ。すっかり広くなってしまった小瓶を眺めていると、後悔と焦燥に駆られてめまいがした。

「あなたって子は、どうして物を大事にできないの!」

 かおりだまの入った小瓶を握りしめたままベッドに倒れ込み耳を塞ぐ。わたしを叱りつけるときの、母の嫌悪を剥き出しにした声がいまにも聞こえてきそうだった。

 何度もねだってようやく手に入れたわたしのたからもの。瓶のなかで転がる最後の一粒は、宝石のように輝いていっそう特別に思えた。そばにおいて眺めているだけでしあわせだったのに、どうして失くしてしまったのだろう。いとおしくて大切で――あぁ、わたしだって失くしたくて失くしたわけではないのに!

 絶対に失くしてなるものかと、わたしは最後の一粒を口に放り、呑みこんだ。

「もう全部失くしたの?」

 すっかり空っぽになった小瓶を目ざとく見つけた母からの嫌味も、もうわたしには響かなかった。どこへしまったのかは誰にも教えない、わたしだけの秘密だ。甘い香りを放つ毒。胃に落ちたそれはわたしの深いところで氷のようにゆっくりととろけて、血液の一部となってからだの隅々までめぐってゆくのだろう。それはとてもしあわせなことのように思えた。

 それから、大切なものはすべて口に入れて呑みこむ習慣がはじまった。キラキラとしたラメパウダーが入った鉛筆キャップ。帰り道で拾った深い青色をしたガラス石。中学へあがっても、高校へ進学してもその習慣は変わらず続き、はじめてできた恋人からもらった手紙も、彼がくれた小さなラクダが首元でうたうネックレスも、記念日ごとにひとつずつくれた小さな宝石のついたピアスも、すべて迷わず呑みこんだ。大きくて呑みこめないものは、お気に入りの部分だけ削って呑みこみ、表彰状やはじめて納得のいく点数をとることができた記念のテスト用紙は、千切って呑みこんだ。呑みこんではじめて、たからものが自分のものになっていく。きっと正しい行為ではなかった。けれどもそのころは、それがとても美しい行為のように感じていたのだ。


 大切なものは、大事にしまっておかなくちゃ――ピアスを外し、それを口に含んだ。わたしの名前を呼ぶ、彼の震えるような低い声を思い出しながら舌の上で転がし、ゆっくりと呑み下す。からだの奥深いところに落ちてゆき、溶けてからだをめぐってゆくのを想像すると、指先がぽうっとあたたかくなっていくような気がした。彼がわたしを思いながら選んでくれたおくりものを、わたしが彼を思いながら呑みこむ。彼の気持ちはわたしのからだの一部になり、これで絶対に失くさない。

 大切なものは大事にしまっておかなくちゃ。

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