見出し画像

忘れるやさしさが子どもたちの未来を守るということ

埼玉県朝霞市の女子中学生が2年間にわたって誘拐され、そして無事保護されるというニュースに国内が揺れた。
報道に使われた少女の写真はどれも愛らしく、ニュースを眺めていた多くの大人の庇護欲をかきたてたのではないだろうか。

インターネットニュースにリンクされたおびただしいコメントには、「無事で良かった」と少女の無事に安堵する声が多くあがる一方で、「どうせ家出だったんだろう」「東京の生活が捨てられなくてわざと逃げなかったに違いない」と、少女を責める声が少なからず上がっていた。

めまいがした。

犯罪に巻き込まれた十代の少女を、大人たちがこぞって責め立てるような構図に。

わたしにはとても理解できない。なぜ犯罪被害者を攻撃の対象にするのか。
少女と何の面識もないわたしが見てもめまいがするほどの悪意を、なぜ簡単に衆目に晒すことができるのか。

虐待死した子どもの凄惨な虐待痕が、報道によって晒されることがある。
センセーショナルな映像ないし画像はたちまち拡散され、多くの大人たちの胸を打つ。
けれど、大人たちの胸を打つために彼らは生きていたのではないし、まして虐待事件の惨たらしさを伝えるために死んでいったわけでもない。
彼らには彼らの生活があって、ただそこに生きていただけ。
必要以上に生活を暴かれて、大人たちの好奇の目に晒される必要などないのだ。

どのような理由や背景があったとしても、子どもたちは守られるべき存在で、大人はそれを守る義務を負っている。

子どもたちの未来を守るには、むやみに拡散をせず、忘れること。
けっして彼らを暴こうとせず、知りたがらず、ただしあわせを祈って忘れること。


犯罪被害にあった子どもたちが無事に世間から忘れ去られ、わたしの知らないところでひっそりと、少しでもたくさんのしあわせに恵まれますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?