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たからもの(2)

〝ひとりで生きていくのは容易い。けれど誰かになぞられないと、自分がいったい誰なのかさえもわからなくなる。〟

一話目はこちらから。


「じゃあ、これ。またね」
「ありがとう、また」

 地下鉄へと続く階段をくだる彼の背中を、もう何度見送ったことだろう。彼との関係がはじまって、もうじき一年が経つ。週に一度、気まぐれに響く呼び出しを受けて繁華街まで出向き、安いホテルで体を重ねるだけの関係。彼との関係は一年前のちょうどいまごろ、深く酔ったわたしを彼が介抱したところから始まった。

 あの日わたしは、「意識がとろけてしまうほど酒に酔ってみたい」と思い立ち、普段は足を運ばないようなショットバーにひとり出向いていた。初老の店主に勧められるままに頼んだスコッチ・ウイスキーのまるで薬品のような噎せ返る香りに驚きながらも、琥珀色をした毒を次々と口にしたわたしは、計画どおりに酩酊した。とろけてゆく意識が心地よく、アルコールの多幸感に視界がぶれて自分の指先の在処さえもわからなくなってきたころ、何かのはずみで手元に置かれていたショットグラスを倒した。しまった、と我にかえったころには遅く、カウンター・テーブルから滴り落ちた液体は隣に居合わせた男性のスーツを盛大に濡らしていた。その男性こそが〝彼〟であった。

 肩を並べて話す距離感がちょうど良く、あの夜は随分とたくさんの言葉を交わしたように思う。会話の節々にうっすらと滲み出ていた下心にも不思議と嫌な気がしなかったのは、彼の発する声が穏やかで心地よいものだったせいだろうか。短く刈り込まれた髪の毛にはほんの少し白髪が混じっていて、わたしよりも随分と歳を取っているように見えるのに、くしゃくしゃと皺を寄せて笑う姿は幼い子供のようにも見えた。交わした会話はうまく思い出せないが、帰りがけにやってきた公園で、並んで眺めた散りかけの桜が妙に美しく夜に映えていたことだけが鮮明だった。

 やさしくて、親切で、心地よい距離を保って近づいてきてくれたひと。

 別れ際、彼が渡してくれた連絡先の書かれた付箋紙は大切に持ち帰り、その内容をすっかり別の紙に書き写してから、小さく丸めて呑みこんだ。あの瞬間から、彼はわたしにたからものを与えてくれる存在となったのだ。


 一年弱のあいだ定期的に時間を過ごしているのに、わたしは彼のことをほとんど知らなかった。向かい合って食事を摂る機会は数えるほどしかなく、待ち合わせをしたその足でホテルへと向かっていたわたしたちは、互いを探るような会話をしてこなかった。折り目のくたびれたスーツから勤め人であることは判じられるが、彼がどんな仕事をしているのかも、どこへ帰ってゆくのかさえも知らない。そもそも付箋紙に書かれた名前だって疑わしいが、そんなことは気にするようなことではなかった。重要なのは彼と過ごす時間そのものであって、連絡先ひとつで繋がっていられる時代にそれ以外の情報は無意味に思えた。もっとも、彼に関するどんな情報も、彼の左手の薬指に宿る呪いのような光の前には何の意味も為さないのだから。

 ひとりで生きていくのは容易い。けれど誰かになぞられないと、自分がいったい誰なのかさえもわからなくなる。

 他人と関わることを極力避けて生きてきたせいで、わたしの名を呼ぶのはもう彼ぐらいしかいなかった。彼に名前を呼ばれ、彼がくれるおくりものを呑み込んで、わたしはわたしに戻ってゆく。そうやって、わたしはようやく自分の存在を確認できるのだ。

 はじめて関係を持った夜に「会うたびにひとつ、おくりものが欲しい」とねだったわたしを彼は馬鹿にしなかったし、望んだとおりに叶えてくれた。おくりものは小さな付箋紙や、駅で買えるようなご当地ストラップであったりして、どれもセンスの良いものとは言い難かったが、彼は一度だって、わたしを裏切ることがなかったのだ。

 恋人と呼べる関係でこそなかったが、わたしは彼と過ごす時間が大切で、彼はわたしにやさしい。それはとても均衡のとれた関係のように思えた。食事や睡眠のように日常に溶け込んでいた彼との時間。他人と同じシーツに滑り込み肌を合わせて過ごす時間は心地がよく、四六時中熱を持って触れ合う恋人たちよりも、週に三時間だけ、ぬるま湯のようなしあわせに揺蕩う自分たちのほうが、ずっと先へ続いていけるような気さえしていた。

 彼と連絡がつかなくなったのは、それからまもなくのことだった。

《お忙しいですか》
《お返事ください》
《いまどこにいますか》

 週に一度の誘い以外は、おはようとおやすみの二度までとふたりで決めていたメールは、この数週間で何十倍にも膨れ上がった。いったい彼はどうしてしまったというのだろう。最後に会ったのは、もう三週間も前だった。

 関係を持ちはじめてから一年経った記念にと細やかなお祝いを兼ねて食事をしたことを除いては、特に変わった様子はなかったと思う。少しだけ早く待ち合わせをして、向かい合って食事をとり、馴染みのホテルで抱き合ったあと、か細いアンクレットの入った包みをわたしに手渡し地下鉄の階段を下って行った彼の背中を、いつもと変わらない時間に見送った。

 連絡がかえってこないことはこれまでもたびたびあったが、週に一度の逢瀬が途切れたのは今回がはじめてで、わたしは酷く動揺していた。またね、と言いながら去って行った彼はどこへ行ったのだろう。

 連絡不精な彼はメールに気づいていないに違いないと、送信したメールと同じ数だけ着信も残した。思いのほか彼に執着している自分に驚きながらも、無意識に携帯電話を探り指先を動かし、発信を繰り返す作業が止められない。

 リダイヤルのボタンから発信し、コール音が鳴り始めてから二十五秒後、留守番電話に切り替わったのを確認して電話を切り、また発信を繰り返す。一日のうち何度か訪れる、二十五秒を待たずに電話が切れる瞬間にだけ、煩く響く着信音に苛立ちながら電話を切る彼の指先が見えた気がして安堵した。狂っている。こんなことはするべきではないのに――気付いていながらも、歯止めが効かない。

 これまで目を逸らし続けていた、連絡先ひとつだけで繋がる希薄な関係の危うさに直面し、所詮その程度だったのだという失望と、連絡がとれないのはなにか理由があるに違いないというわずかな希望がせめぎ合い、わたしはひどく混乱していた。

 彼と過ごしたホテルの周りや、いつも彼が帰っていく地下鉄の通路をふらふらとくだり、彼の姿を探す。彼が乗る電車を推測しては、朝と晩と二時間ずつ、通勤時間帯の満員電車を何度も往復した。背格好の似た背広姿の男性を見つけるたびに駆け足で追い越し、顔を確認しては落胆する。彼がいない。いったいどこへ行ったのだろう。

 名前のない関係がこれからもずっと続いていくに違いないと過信していたわたしが愚かだったのだろうか。

 唐突な拒絶。吐き気がする。わたしはこの感覚をよく知っていた。

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