見出し画像

むすめのYouTube熱中について悩んで話して実践したはなし

ここのところずーーーーーーっと娘がyoutubeとゲームにハマっていて、何をするにしても「toutubeみたい!ゲームやりたい!」が先にたってしまい、家族がギスギスするシーンが多かった

私も、仕事しなくて良いのであればずっとゲームやったり、小説や映画を観て過ごしたいと常日頃考えているので、娘とあまり違いが無いなと思っていて、頭ごなしにやめろとは言えずにいた

もともと言葉で注意するのが苦手なのもあり、遠巻きに見つつ、お風呂入る時とかに喧嘩していた
2ヶ月ぐらい家族で喧嘩したり、試したりしてきたのでその中の実践と学びを書いておきたくなった

この期間の中で、私とおくさんはよく話し試行錯誤して、むすめも彼女なりに悩み工夫してくれていた

今のところむすめは、youtubeやゲームはやるけど、ご飯の時は自分で電源を切ってくれるし、日によってはタブレットから離れ、一緒に折り紙をしたり絵本を読んでくれるようになった。保育園で何があったかを話してくれる時間も増えた

劇的に何かが解決された訳ではないけど、家の雰囲気がすこしづつ変わってきているような気がする

ゲームやるなと言うでもなく、上からルールを示すでもなく、自然に家族のリズムが生まれはじめていて、私たち家族にとって良い経験になっているように思うので、まとまりはないけど書いてみる


そのまんま観察

身体感覚への共感

娘をよく観察してると、何かの用事でyoutubeをやめる時に「やめたくない」じゃなくて「まだ全然やってない」と言ってるのに気づいて、これはもしかして「時間の身体感覚」が薄いんじゃないかと思った

時間に振り回されてるから、彼女自身もやるタイミング、やめるタイミングがわからず、大人の都合の隙間を縫って急いでいるから安心して楽しめないのかもしれないと思い、ホワイトボードで時間の整理を一緒にやって、時間が長さで見えるタイマーを買った

ゲームをやるときには一緒にタイマーをかけてから初めて、あと5分で終わりだよと声をかけたりしたらむしろ限られた時間でゲームを集中して楽しんでくれるようになった気がする

むすめは時間を守れないのではなくて、時間を身体的に経験したことが無かったのかもしれない

こどもを「子供」の枠にはめて理解しようとしてしまう

youtubeをやめない子供を見て私が真っ先にやったことといえば、スマフォのブラウザーの検索窓に「子供 5歳 youtube やめない」や「子供 スマフォ依存症」のような言葉を入力して検索することだった

検索をすればだいたい何らかのヒントやTipsのようなものが得られるけど、それをそのまま実践してもだいたい上手くいかない、「問題のある子供」として扱われる事に子供は敏感だ。大人がなんとかバレないようにおだてたり、厳しくしたりしても何故か伝わってしまう。返ってくるのは反発ばかり

「7時にはゲームをやめようね」と言っても終われないし、たまに終われたら「よくやめられたね」と言っても聞いちゃいない

自分を「できない人」をして扱う人の話を聞きたい人はそんなに多くない。これは子供にかぎらないのではと思う

たぶん私はむすめを「課題のある人」としてとらえて自分の不安を解消しようとしていたのではないか

現実と理想のギャップが課題だとすれば、それは行動で解決できるものだから、行動すれば安心できる

私がyoutubeをずっとしつづけるむすめを見て、勝手に心配になり勝手に寂しくなり、イラつき、感情が掻き乱されているのであって、むすめをyoutubeから引き離すのはそんな私が安心したいからであったりする

あなたはこれに困ってますよね?と言い、それを解決することで安心するのは解決してあげたと思ってる人なのかもしれない

人に対して課題を設定するときに、その課題は実は当事者ではなくて、外からそれを課題と定義した人が見ている世界のものではないか

親はなに様

散歩しながら雑談対話

私が一時期体調を崩していた時期から、夫婦で空き時間を見つけて散歩することが習慣になっている。初めは健康のために体を動かすことが目的だったけど、歩きながら話す事も大切な目的になってきた

自然と子供のことについて話す事が多く、私の知らないむすめの顔をおくさんが知っていたりして面白い

親のそれぞれの景色からみえるこども

むすめが保育園に行きたがらない時期に、自分の仕事に間に合わくてどうしてもイラついてしまうと私が悩みを話した

おくさんは保育園に行かせようとするあなたがイライラしていることがあの子は嫌なんだろうと言い、まずは保育園の話は一旦置いておいて、ゆっくりハグをして敵じゃない事を示して落ち着くのが第一歩だと教えてくれた

一人では袋小路にはいってしまうような時も、同じ状況に向き合う他者と話すことは大切だ

それぞれの子供時代の経験と価値観

子供の話をしながら、おくさんとそれぞれの子供時代の経験を話した。親との関係、自分は本当は親になにをして欲しかったのかとか

思うに、大人も今だに子供時代に感じていた喜びや寂しさなんかがそのまま残っているんじゃないだろうか。大人になって人それぞれ色々な方法で乗り越えたり困ったりしてると思う。子育てという経験は親の子供時代の経験と無関係ではいられない

もしかして、子育てに限らず、対人関係全般に言えるようにも思う

大切なのは、それに親自身が向き合い自覚しようとすること、できればパートナーや関わる人同士がその価値観を交換していることだと思う

自覚しあう事に目を向けないと、無意識に自分の課題を他者に押し付けることになる、往々にしてそれは自分より弱い立場の人間にしてしまう。子育てにおいてそれは子供だ

イッツ・ア・ハイスピード・スモールワールド

子供と親の環世界

こどもの成長は早い。どのぐらい早いかと言うと、昨日までパンツを自分で履けなかった人が、ある日突然youtubeで課金したいと言い始めたりするぐらい早い

私はと言えば、どちらかと言うと座り仕事で腰が痛くて、パンツを自分で履けなくなる日もそう遠くない

むすめは日々語彙が増え、読める字も多くなっている。保育園での人間関係も、ちょっとびっくりするぐらい複雑だし、豊かだ。意地悪されたとか、いっしょに遊んだとか、あの子とあの子は仲良いとか、大人と何が違うのかとさえ思う

でも、まだ身長は私の半分ぐらいだし、小さな字を書くのは難しく、世の中の事も知らないことが多い。牛乳が飲みたくても冷蔵庫のドアは高く重すぎて、いちいち台を持ってきたり親に頼まなくてはいけない。不自由だろうと思う。

子供時代というのは全員が経験するものであるはずだけど、過ぎ去る時間が早い事もあって、なかなかバリアフリーとはいかない。意外と子育ての大変さというのもこの辺に起因する部分が大きい気がする

そんな不利な環境に身を置きながら、日々周りが変化し、自分自身もすごいスピードで変化していく

まだ「できない」が多くあるが、反面「わかる・できる」がどんどん広がっていく中での混乱や不安はどれほどの物だろうか

今のむすめのいきずらさ

むすめがYouTubeに本格的にはまり出したのはipadを自分で使い始めてからだ。タッチパネルは子供でも直感的に操作できるし、youtubeのユーザー体験は最小限の認知不可で興味が湧くものをザッピングするために最適化されている

デザインとしてはこの上なくユーザーフレンドリーなものになっているが、結果としてそれが困りごととして我が家を襲った形だ(ユーザーフレンドリーとはなんだろうという問いは今回は置いておこうと思う)

むすめにとってタッチパネルでyoutubeを観るということは、自分で全て意のままに操れ、それに応えてくれるもので、不自由な生活のなかで唯一それだけは彼女に正確な反応で応えてくれる

不安定な日々の中で、常に行動に対して応えてくれ、どんな感情であれ約束された状態になれる

ちょうどラジオで飲酒依存についての話を聞き、「自己治療仮説」というものを知った

心理学者・カンティアンにより提唱された説で、「依存症者が依存にふける理由は苦痛を避けるためであり、自分で自分の落ち込んだ気分を直そうとする、いわば自己治療なのではないか」というもの。

私の想像と仮説ではあるけど、むすめにとっては、言葉にならない揺れ動く感情の中で、Youtubeが「不安定な日々で、常に一定の反応になれる時間」避難場所として機能しているのではないかと考えた

責任の生成:課題と私たちの分離

では、むすめは何から避難しているのか?安心して生活できるようにしていけるにはどうしたらいいのか、そこに向き合う事が大切だと思った

youtubeを遠ざけるではなく、むすめの不安に向き合うことが今の状況を解決し、むしろ新しい関係をつくる良い機会になるのではないだろうか

ヒントになったのはロブロックスというゲームだった

むすめはいつも一人でYoutubeを見ているわけではなく、私もおくさんもゲームが好きなので、3人でいっしょにゲームをする事も多い

ロブロックスというゲームは、3Dのメタバース空間でさまざまなミニゲームを楽しむことができるプラットフォームだ。

このゲームの中では、私もおくさんもむすめも同じ身体で同じルールの中で遊ぶことができ、Youtubeで情報を得る娘から教えられる事も多い。そういう平等な状態でいっしょに遊ぶ事が楽しいようで、よく誘ってくれる

一緒に遊んでいるときには、「親といっしょに何かをやりたい」と言うポジティブな気持ちを感じる。禁止するのではなく、一緒にやることをを増やしていければ良いのかもしれないと思った

単純にゲームを一緒にやる時間を増やせば良いわけではないのが難しいところで、家族にもそれぞれやりたい事がある。家族がそれぞれの都合をすり合わせながら、一緒にたのしめることを増せていけるかが大切だ

むすめが安心しながら、家族全員で楽しめる関係を自分たちでつくっていくためになにができるだろうか

一緒にやる工夫

いっしょにやり方の工夫

実際にやった事をまとめておこうと思う。振り返るとだいたいこの四つになる

気持ちの交換:それぞれが自分がなにを考えどう感じているかを自分でわかって、伝えられるようになりたい

いっしょにやる約束:安心して遊ぶためには最低限のルール・約束が必要だ

いっしょにやり方の開発:誰かに示された方法だけじゃなく、私たち自身でやり方を考えて試行錯誤する

いっしょにやる経験:その経験を通してみんなで元気に育つ

ささやかだけど大切な当事者研究的な実践

まずやったのは、「みんなで向き合うための外在化」だ

時間感覚が薄いむすめは、1時間・1日・1週間で日常を切り分けて認識するのが難しい。ホワイトボードに今日の予定を量でわかるように一緒に書いた

そうすると空いている時間がわかるので、ここで何したい?と聞くとYoutubeと答えるので、そう書く

その時間になったら声をかけて、今度は時間が量で見えるタイマーを自分でセットしてもらって、目一杯楽しんでねと言う(これは私の本心だ)

このタイマー時間を量としてみれるのでとても良かった

習慣をつくるのが目的ではなくて、時間が身体感覚としてわかり、安心してくるのが目的なので、まだやりたいと言ったら、追加時間を自分でセットしてもらって終わり側に声をかける

何度かやってるうちに、終わった時間で電源を切ってくれるようになり、なんだか満足感も高いように見えた

時間を書き出して、空いた時間で何をやるかを考えると、そこになにを入れたいか考える事になるので、私はこれをスケジュール管理ではなく、やりたい「こと」のみえる化と名付けた

ちょうどこの時期お年玉をたくさんもらっていたので、ほしい物リストも書き出した。一緒にお金を数えて、ほしいものをリストアップして、今一番ほしいものを決めて一緒に買いに行った。ほしい「もの」のみえる化

同時期におくさんが娘とやってくれた「はーとゲージ」もすごく良かった。本を参考にしたらしいが、1日のはじまりに今日の元気度をハート何個か発表しあって書いておく、自分の体調を自分で知ること、それを知ってくれている人がいることは安心につながる

自分がやりたいこと・ほしいことを自分で知って、制約とすり合わせる事ができていけると、自己効力感につながる。むすめも少し安心感がたかまったように見えた

私たちのものさしをつくる

どんなことをみえるようにするかは関係によって変わると思う、フレームワークを参考にする事も良いけど、自分たちが必要なものさしはなんだろうと考える経験は自分たちらしいやり方の開発につながると思った

3人とも飽きっぽいので習慣になってるとは言い難いけど、今後もこうやって工夫しあっていけたらいいと思う

さいごに

“私”の視点で向き合う

いろいろやってみて思うのは、つまづく時はたいてい自分自身を「親」のイメージにはめてしまっている時だったなと思う(今も全然ある)

親である前に、自分は自分なので自分のできる事でやっていくしかない

私はデザイナーなので、可視化のテクニックや経験が役に立った。というより結局それしかできなかった。もうちょっと言葉で上手に説明できる人もいると思うし今だにちょっと憧れはある

自分ができることで親をやる、足りないところはパートナーやもしかしてむすめだって補ってくれる

子供にとってはそんな私も育っていく一つの環境なのだから(それが幸か不幸かはわからない)まずはそれを認めることからはじめないといけないと思う

私の個人的なこだわりだけど
「自分たちで自分たちらしいやり方を見つけること、」
「それを一緒に経験することを通じて世界に応答できるようになること」
にはものすごい価値があると思っている。家族でもそれを大切にしたい

学びはまだまだ続くだろうけど今のところのまとめだ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?