幻像に成れない自分に0点を下す

持続時間の短い「やった!」

私は、基本的に、自分の成果(何か良い評価をいただいたとき・何かに合格したとき)を「すごい」と思えない。正確に言えば、「やった!」と思ってもその熱と気持ちはすぐに忘れる。つまり、成果に対して感じた嬉しさの持続時間がかなり短いということだ。そして、そうした成果を出したにもかかわらず、その後も常に自分の短所ばかりを見続け、まるで成果なんてどこにも無いかのように過ごしている。
卑怯なのは(笑)、自分が何か困難にぶち当たったり落ち込んだりしているときに都合よく「良い成績を残した自分」を思い出して、自分を慰めるために使うということ。

誰かの成果はすごく「すごい」

私は、隣の芝生を青く見てしまう人間だ。だから、他人の人生ばかり輝いて見え、自分の何でもない人生(ほらこういう風に書く(笑))を卑下してしまいがちだ。
最近は少しマシな状態になってきたが、それでも、青々しく映るフィルターを搭載した自分の目は簡単には直せないみたいだ。そしてこのフィルターでセルカは撮れない。
そんな私は、自分の成果に対してはかなりクールなのに、友人や知人、もしくは全く知らない人の成果にはかなり盛り上がる。「すごい!」と。
それが、自分は全く知らない分野の功績だとしてもだ。それがどれだけすごいのか、どうすごいのかも分からないのにだ。そして決まって自分の現状と比べ、落ち込む。


「いや、君にだって成果あるじゃん」
誰かに言ってほしいのではなく、自分が自分にそう思ってほしい。

私の場合の「自分に厳しい」の正体

そんな風に自分に厳しい自分を分析してみたところ、次のようなことが分かってきた。
私の中には、「理想の自分」という像が存在する。そして、それはおそらく幻像だ。
その「理想の自分」がどんな自分なのかを自分自身に聞いてみると、これが不思議なことに、全く言語化できないのである。何をしていて、どんな能力を駆使していて、どんな姿なのか。これを全く説明できないのだ。ただ、その幻像は、常にキラキラしていて、笑っている。
この「理想の自分」とかいうやつは、一体何者なんだろうか?

私は、今までずっと、「理想の自分」に成れていない自分に0点だけを与えていたのだと思う。
しかもその「理想の自分」とかいうやつは、幻に過ぎない。
そして、多分、この「理想の自分」という幻像は、私がこの先何かを成し遂げることができたとしても、消えていくことはないのだろうと思う。
だから私は不安を感じた。これから自分がまた何か成果を出したとしても、それに満足感を得られず、幻像の「理想の自分」なんてものを追いかけ続けるんじゃないかと。そんなものは幻だというのに、それに届かないからとまた自分に0点ばかり与え続けるんじゃないかと。

「自分に厳しい」は本当か?

私は、「自分に厳しい」というスタンス自体は、完全に長所だと思っている。
でも、自分に厳しくすることと、他人と自分を比べて落ち込んで自分を卑下してしまうことは、別物なんだと気づいた。
私がやってきたのはどっちだったのだろうか。
もしかしたら、他人の芝生を青く見過ぎてしまう自分の無駄な落ち込みに起因した卑下だったのかもしれない。
それか、自分の中に存在する、本当は存在することのない「理想の自分」という一番の「青」を見続けていただけだったのだろう。
なら、私は自分をどう止めてあげればいいのだろうか。幻像に憧れる自分を、どうやめさせることができるのだろう。


ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
最近、なんで自分が成し遂げたことにはこんなに喜べないんだろう、と感じたことをきっかけに色々考えたことを書いてみた文章でした。

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