推しを引いても輝けるか

思えば「推し」は、今の私を形成していると思う。
私が韓国語が得意だということも、今勉強していることも、ファッションも、ヘアスタイルも、ヘアカラーも、感性も、聞く曲、見るドラマ、興味を持つもの……
全て推しを通して身についたものだ。そして私が日々得る感情も、その大部分が推したちからだ。主に感動、そして楽しさ、嬉しさ、ドキドキ、ワクワク、キュンキュン、うっとり、恋しさ、懐かしさ。

そんな自分から推しを抜き取ったとき、私には一体何が残るのだろう?
他に好きなものが無いわけではない。韓国ドラマ鑑賞、音楽を聞くことなど、好きなことはまあ他にもある。
しかし推しを抜き取ってしまえば自分がかなり空虚になってしまうことは確かだ。だから私は今、自分のアイデンティティに少し不安を抱いている。

私はもしかして、自分のアイデンティティを推したちへ強引に求めているのだろうか?
今「自分を語る最大のものは何か」と自分へ問えば、推しとそのグループだと答えるだろう。彼らのファンである自分だ、と答えるだろう。

こんなことは考えたくはないが、私が、推しを推せなくなってしまったとき、そのとき私には何が残るのだろう。
今私はひょっとしたら推したちに依存しているのではないか?
「私には彼らがついている!よし、今日もがんばるぞ!」「推しがいるから大丈夫!」と思うことに問題は無いだろう。(と信じたい(笑))
しかし、私は推したちに都合よくもたれかかることによって現実逃避しているのではないか?(いや本当にこんなこと書きたくはないのだが)

今は推しを推す私が私の一番のアイデンティティだ。
推しやグループのことを考えたり、活動を追ったりすることは私にとってほぼ呼吸や水分補給のようなものだ。
しかし、同時に今私は自分自身に言いたい。
推しを抜き取ったとき、自分の中に輝くものがある自分になれと。
切に願う。



お読みくださりありがとうございました。
推しを推せなくなったとき、自分は何者になるのだろうと不安になりました。そのときできれば自分に何かが残っていればいいな、推しに完全に依存しきって自分の実生活から目を背ける人生でなければいいなと思って書いた内容でした。




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