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15の夜のポリティカル・コレクトネス


1983年発表、尾崎豊のデビュー曲『15の夜』。今からちょうど40年前の歌になる。
尾崎豊の総てが詰まったような楽曲で、ぼくは折に触れて聴いている。

切ない旋律、切ない歌詞、切ない歌声。
総てが、切ない。
まず絶妙なのがこのタイトルだ。14の夜ではどこか幼い気がするし、16の夜ではどうも切なさが足りない気がする。

そして歌詞の透徹さと正確さときたら、いつ聴き返しても打ちのめされてしまう。

自分の存在が何なのかさえ解らず震えている15の夜

この一行だけで、まるで短歌のように決まっている。
「震えている」のは西野カナだけではない。ぼくのような胡乱な凡才ならば「苛立っている」といった方向性の言葉で表現しそうになるその部分を、強がりの中に弱さが同居する一言で15歳のイノセンスを見事に言い当てている。

星空を見つめながら自由を求め続けた15の夜

一見何気ない歌詞のようでいて、凡庸な書き手ならば「夜空を見上げながら」とでもしてしまいそうなところを、そうではなく、「星空を」「見つめながら」なのだ。

「盗んだバイクで走り出し、誰にも縛られたくないと逃げ込んだ」真夜中の、その上空にはまるで孤独な家出少年を癒すような星明かりが、さぞかし燦然と輝いていたことだろう。その星を漫然と「見上げる」のではなく、じっと「見つめる」のだ。この痛切さになんだか泣けてこないだろうか。

自由になれた気がした15の夜

そして極めつけは、この一行。
「気がした」を挟みこむ冷徹な客観性。
自由を求めて走り出したのだから、「自由になれた15の夜」で良いではないか。しかし決してそうではないことを判っている怜悧な感受性。そう。15歳で完全に「自由になれた」はずなどない。この夜が明ければ、また窮屈な日常に戻らされる。それでも今だけは自由になれた。気がした。15の夜。
もはや泣けてこないだろうか。(この絡み方がもはやウザいかもしれない)

「盗んだバイクで走り出す」というキャッチーな一節は、尾崎豊の代名詞のようにも語られ、パロディにされて「ネタ消費」されて久しいわけだけど、近年はポリティカル・コレクトネスの観点から受け入れられない人も多くいると聞く。(本当かな、とは思うけれど)

ぼくも別に、「尾崎最高!」と言いたいわけでも「ポリコレ警察か!」と言いたいわけでもない。若者にウザ絡みしたくもない。窃盗行為を助長したいわけでもない。(当たり前だ)

そうではなく、どこにも居場所のない孤独な夜は誰にでも覚えのあるはずで、そのよるべなさや痛みを的確に掬い上げてくれた歌を、ただ寿ぎたいのだ。そして詩の中に静かに滲むそこはかとない品のよさと、失いかけているディーセンシー(真っ当さ)の感度をあらためて感得したいのだ。
だからこの曲を聴くときだけは15歳に戻った気分で、一人静かに向き合いたくなる。

この歌ほど切り抜きされて誤解されている楽曲もないような気がしたので、きちんと書いておきたかった。一度聴いてみてほしい。尾崎豊がもし生きていれば、今年で58歳になる。55歳の歌う15の夜だって、できることならば聴いてみたかった。

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