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終焉と始まり

伽藍堂の部屋の中で、君はベッドの上でつまらなそうに窓の外を見つめる。
四角い窓から見える景色だけが、君の世界のすべて。
窓の外は灰色。色とりどりの傘が道を行き交う。
部屋の中はひどく静かで、時を告げる針の音だけがカチカチと響き渡る。
見ているだけでは何も変わらないよ。
外の景色はいつも同じ。
灰色と、目が潰れそうになるほどの傘の色の群れ。

知ってるよ。
街外れの廃墟の向こうには、海が広がっているんでしょ。
でも危ないから、あそこには近づいちゃいけないって言われてるんだ。
君だって行ったことないだろう。
どうして行っちゃいけないかなんて知らないけど、でも近づいちゃいけないんだって。
誰も教えてくれないんだ。
ただ危ないから行っちゃいけいないってみんな言うんだ。
じゃあどうしてみんな知ってるんだろうね。そこが危ない場所だって。
そうだ、二人で行ってみようよ。
君も行けるよ。僕が連れて行ってあげる。
君が歩けないなら、僕がその椅子を押してあげるよ。
大丈夫。
二人で一緒に行こう。

怯えたような君の瞳を覗き込む。
その瞳の奥の奥には、たしかに希望と憧れがあるのを知っているんだ。
「ミスティリオ、行こう。僕たちはひとりじゃない。二人で行こう。」
君は戸惑いながら、おずおずと僕に手を伸ばす。
僕はその手を掴んで、怯える君を車椅子に乗せて、彼の狭い世界を壊していく。
扉の向こうは君の知らない世界。
君はいつもなんでも知っているようなことを言って、僕に知らない世界を見せてくれた。
今度は僕の番だよ。
僕の目じゃなくて、君の目で見るんだ。僕たちが見たい世界を。
椅子の上の君の手が微かに震えている。
いつも僕に話していた知らない世界。
行けないと思っていた四角い世界の外へ。
「ユリーカ」
「大丈夫、僕はここにいるよ」
不安げな彼をなだめるように、ゆっくりゆっくり車椅子を押していく。
灰色の世界へ、一歩ずつ。
雨の中に、傘も差さずに歩き出す。
僕も君も雨に濡れて、すぐにずぶ濡れになってしまう。
通り過ぎる人たちは僕たちを避けて行く。
色とりどりの波を乗り越えて、僕たちは進んでいく。
雨は冷たくひどく悲しい気持ちになってくる。
それでも僕たちはひとりじゃない。
君が教えてくれた歌を小さく口ずさむと、なぜか元気が湧いてくるような気がする。
君も同じだろうか。たどたどしく、聞き慣れない歌を口ずさむ。
誰も彼も無関心で、雨の中歌いながら行進する僕たちのことなど見えていないかのようだ。
だんだん楽しくなってきて、二人でなぜか笑い合っていた。
雨はずっと降っているのに、なぜだか寂しくはなかった。
僕たちはそうして、廃墟に向かったんだ。

僕の押す車椅子は僕たちの歌に合わせるようにリズムを刻む。
ガタガタコトコトカタカタキュルキュウル

どれくらい歩いたかもわからない。
ほんのちょっとだった気もするし、すごく長い時間だった気もする。
気付いたら廃墟に着いていた。
僕も君もどきどきしていた。見たことのない世界がこの先にある気がしていた。
建物は半壊していて屋根もところどころ穴が空いていて鉄柱がむき出しになっていたりもした。
僕たちは進む。どんどん奥へ。
この先に、海が広がっていると知っているから。
廃墟は進むほど霧に包まれて、視界がどんどん狭くなっていく。
「ユリーカ」
「大丈夫、いるよ」
僕たちはこうして声を掛け合って、お互いの存在を確かめた。
霧が濃くなって、これ以上進めないことに気付いて歩みを止めた。
周りは真っ白で、灰色の世界を知っているはずなのに、なぜだか心の中に冷たい風が吹いたように足下から震えるような感覚がする。
「ミスティリオ、本当にこの先に海があるのかな。こんなに真っ白じゃ、何もわからないね。」
「うん、でもほら、聞いてごらん。波の音だ。」
「波の音?ミスティリオ、君は波の音も知っているのかい?」
「ああ、だってほら」
君は見えない世界に手を伸ばす。
僕はその先に目をこらす。
すると霧はどんどん透けていって、その向こうから音が。
ザザー……ザザー……
足は知らず知らずのうちに前へ。勝手に動いていく。
あんなに濃かった霧はどんどん晴れて、目の前にはきらきらと音がしそうなほどに満たされた水の揺れ。
ああ、これが、海か。
僕はいつの間にか君の隣にいて、君もその目を丸くして、目の前に広がる世界を見ていた。
色のない世界で、無機質な世界で、壊れかけた建物の先に広がっていたのは果てしない海。
そう、果てしない。
こんな色のない世界はそれこそ果てがない無限だと思っていた。
でも違ったんだ。
今目の前に広がるこの海は、果てしなく、どこにもつながっていない。
絶望なのか、呆然なのか、歓喜なのか、感情なんて何もないはずなのに。
気が付くと、雨が。
雨が降り注ぐ世界に、光が差した。
灰色の空に、一筋の光の線がまるで切り裂かれたように空を割る。
きらきらと。
知らない世界。君が教えてくれた“空”。
灰色じゃない、『青い』空だ。
雨はまだ降っていて、きらきらと雨粒が光る。
振り返ると、世界に色が溢れている。
崩れかけた建物の焦げ茶の欠片、建物に絡まる蔦の緑、欠けたタイルのくすんだオレンジ。
空にかかる、七色の『虹』。
「見て、あれが虹だ!ミスティリオ、君が言っていた!」
振り向けば、君は空を見上げて、見たこともない世界に言葉をなくして強く椅子の肘掛けを握りしめていた。

知ってる?
君は本当は自分の足で歩けるんだ。
ほら、いつまでそうしているつもり?
手を伸ばしてごらん。
僕が手を繋いであげるから。
大丈夫、ひとりじゃない。
僕の手を離さないで。
僕と一緒に、あの空を見に行こう。

君は大きく目を見開き、逡巡したあげく震える手を僕に伸ばす。
僕は君の手を握って、しっかりと君を見つめ返す。
そう、知っていたよ。本当は君が自分の足で歩いて行けることを。
知らないふりが板について、知らないままでいることに染まってしまっただけなんだ。
僕に知らない世界を教えてくれた君だから、本当はその目で見たかった世界を僕に託してくれた君だから、できないはずなんてないんだ。
どうしてだろう。
ずっと見たかった景色なのに、こうして君と手を繋いで見る世界は、思っていた景色と違うんだ。
君が教えてくれた世界より、ずっと綺麗だ。
きらきら光る雨に照らされた世界はこんなに美しいんだね。
あれが青い空なんだね。
本で見たより、ずっとずっと綺麗だ。

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