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花空

店先の花に水をやる
雨に濡れて心なしか寂しげに見える
花に寂しげなどあるのだろうか
胸に抱えた水差しをぎゅっと握りしめる
『この花は何色だっけ?』
いつからかそんなことも考えなくなって、今目の前にある花のカタチをしたそれをぼうと見つめる
誰も彼も傘を差して濡れた道を歩く
目の前の花には色はないのに、そこら中に回る傘は満開に色を散りばめる
心の中にぽっかり穴が空いたような、それはいつからだっけとか
考えても頭に靄がかかったようにして、何も考えられなくなる
水差しを抱いて店内に戻る
部屋中に満たされた花のカタチをした無機質な群れ
開きかけの蕾み、満開の大輪、絡まるように伸びる蔦
どれもそこにあるのに、触れられない遠くにあるように感じる
机の上に水差しを置き、締め切られた世界で大きく息をする
吸い込んで吐いて
感じるはずの花の匂いも、頭の隅でぼやけてシュワシュワと消えていく
「これは花、綺麗な花」
声に出しても、手に触れても、寂しげな花に色も温度も宿らない
いつからだっけ
思い出そうとする度に目の前に手をかざされたように頭の中が暗くなる
この花が何色だったのかとか、この花の名前はなんだっけとか
どうしてそんなことも考えられないの
あの日から、あの人に出会ってから、今まで考えもしなかったような事ばかり考えて
こうして毎日頭に靄がかかって
苦しくて
きっと心を奪われてしまったんだ、あの色のない雨に、灰色の空に
私たちは大事なものを持っていたはずなのに
この胸に抱えていたはずなのに
胸の真ん中に空いた穴から黒い手が伸びて、何も見てはいけないと目をふさぐ
「これは花、綺麗な……アネモネ」
言葉にした途端目から雫がこぼれて、黒い手はそれを嫌がるようにモヤモヤと形が曖昧になる
どうしてだろう、どうして目から雨が降るのだろう
手のひらに落ちた雫を見つめていると、次から次へと手のひらを濡らす
これはなんだっけ
ああ、もう思い出せそうなのに
カランカランと鈴が鳴り、来客を告げる
濡れた頬をそのままに顔を上げる
「いらっしゃいませ」
雨の音が部屋中に満ちて、黒い手が嬉しげに踊る
世界が回る
色のない世界がぐるりと回る
私は誰だっけ
この花は、何色だっけ

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