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「あたしをやろうぜ」

今から2年ほど前。小学校入学を控えた姪がランドセルのカタログを持ってきて

「ねえ、鴎ちゃんはどの色がいい?」

と尋ねてきた。確か「ブラウンかな」と答えたような記憶がある。
へぇ〜すごいな〜今のランドセルは色は勿論デザインも色々選べるんだなぁ〜なんて思いながらカタログを眺めていたら、姪が再び質問してきた。

「ねえ、鴎ちゃんはランドセル何色だったの?」

私はこう答えた。

「赤だよ。鴎ちゃんが小学校の頃は男の子は黒、女の子は赤しかなかったから」

姪は不思議そうな顔をした。そして、繰り返しこう訊いてきたのだ。

「だから、何色だったの?」

もしかしたらママから話を聞いてはいたものの「鴎ちゃんはママと違って変な人だから違う色のを背負ってたんだろう」と考えたのかもしれない。
だが、どうやら今の子は「選択肢がない」という世界を想像出来ないようだった。びっくりした。それと同時に、いい時代になったもんだなあとしみじみしたのだった。

姪の小学校生活に触れると「いい時代になったなあ」と感じることが多々ある。
運動会を見に行った時、学校のトイレを借りた。洋式で、とても清潔。とてもきれい。快適だった。
私達の頃の学校のあのトイレ、一体何だったんだ…。当然和式で、たまに失敗する子がいて便器の外に大便が転がってたりして悲鳴が上がる。掃除はタイルの床にバケツでバシャーッと水を撒き、デッキブラシでゴシゴシ。不潔極まりない…。

姪は毎日、かわいい水筒に麦茶を入れて学校へ持って行っている。
私達の頃の水分補給なんか、手洗い場の蛇口を上に向けて水道水ゴクゴクだもんな…。男子なんか蛇口に口つけて飲んでたし…。なんで水筒に麦茶、遠足の時以外NGだったんだ。謎すぎるルール…。
手を洗う時だって、みかんが入ってるあのネットに入れた黄色い石鹸が蛇口の根元にぶら下げられてて。確かにあの頃はハンドソープなんか珍しい代物だったけど、でも、もうちょっと何とかならなかったのか。例えば石鹸は自分用のを用意するとか。石鹸箱はあったんだから、可能だったはずだ。

出席名簿も、背の順も今は男女混合。パパママや鴎ちゃんの頃は男子と女子が分けられてて、いつも男子が先だったんだよと話したら「えー」と、姪。そうよね、「えー」よね。
でもねえ、それがあまりにも当たり前すぎて「えー」とも思えなかった。男子が先。それが当たり前だと思っていた。夏は暑く冬は寒く、春になれば草木が芽吹いて花が咲いて、雨が降れば水たまりが出来るのと同じくらい、当たり前のことだと思っていた。
或いは「思わされていた」のか。

朝ドラ『虎に翼』を見ている。
始まる前は「また昔の話か…最近昔の話多いよな…」と思っていたが、いざ始まってみると「これは決して、昔の話じゃない」という感想を抱くようになった。

主人公・寅子は世の中のシステムや暗黙の了解に対して疑問を覚える度顔を顰め、静かに「はて?」と発する。
今までの朝ドラにありがちな主人公みたいに元気いっぱい、瞬間湯沸かし器みたいに急に沸騰して怒りを露わにし「ちょっと待って下さい!それはおかしいと思います!!」とかわめき散らしたりはしない。
この「はて?」という違和感、小さな引っかかり。自分も人生の中で何度となく覚えてきた感覚だな、と思いつつ見ている。

私は小学校3年生頃から、殆どスカートを穿かなくなった。理由は明解でただ単に動きやすく、パンツが見えるんじゃないかとかどこかに引っかけて破くんじゃないかとか、そういったストレスが少ないからである。
だが、母は度々「女の子なんだから、スカートを穿いたら?」と勧めてきた。折角娘を持ったんだから、可愛いデザインのスカートを穿いた姿を見たいという思いだったのかもしれない。だが、私は「はて?」に似た小さな違和感、引っかかりを感じていた。
なんでスカート穿かなきゃいけないんだろう。めんどくさいのに。

小学校高学年になるとデニムが好きになり、デニムのシャツとジーンズばかり着用するようになった。すると、今度はクラスの男子からこんな言葉が飛んできた。
「女のくせに、男みたいな格好」
はて?である。男みたいな格好って何?
私はZARDの坂井泉水さんに憧れて、坂井さんのファッションの真似をしていただけなのに。身の程知らずではあるが、坂井さんのファッションが「男みたい」だと思ったことはなかった。綺麗なのに、かっこいい人だと憧れていた。

中学に入るとその小さな違和感や引っかかりを封じ込めなくてはいけなくなる。強制的にスカートの制服を着せられるからだ。
採寸に来た洋品店のおじさんは「お母さん!この子はね、大きくなるよ!だから大きめに作っておかないとね!」と頻りに謎の予言をかまし、私の身の丈よりもかなりでかい、ぶかぶかの制服を仕立て上げた。
私の身長は中学の3年間で5〜6センチ程しか伸びなかった。
占い師じゃねぇんだから!洋品屋が!無責任な予言をするな!!

大きく重たく長いスカートの制服は苦痛でしかなかった。毎日着ているうちに、体調もだんだん悪くなった。肩こりがとにかくひどく、ピップエレキバンや湿布を貼って通学していたが、この制服も一因で私は不登校になる。
せめて、ジャージで通ってよかったら…というか、何でジャージじゃダメなの?特別な行事の時以外ジャージでよくない?
という発想が生まれたのは、つい最近のことだ。
あまりにもその「謎の決まり」が「当たり前」として生活や世の中に馴染んでいると、人はどんなにつらく苦しい思いをしていたとしても、疑問を持つことが出来なくなるのである。

先に書いた男女別で、男子が必ず先の名簿や背の順もそう。それが当たり前なんだとばかり。
姪の運動会は、男女で分けられた種目も存在しなかった。
「鴎ちゃんの頃は男子が騎馬戦で、女子はダンスって決められてたんだよ」なんて言ったら姪、どんな反応をするだろうか。

大体我々の頃の運動着、女子はブルマー。ぶっちゃけ「黒いパンツ」である。
これは流石に当時から「なんで女子ってだけでこんな恥ずかしい格好させられなきゃいけないんだろう」と思っていた。「嫌だよね」とみんな言っていた。だって、パンツじゃん!黒いパンツじゃん!!って話。
変態趣味のある男のお偉いさんがそういうルールを作ったのか?と当時から勘繰っていた。
体育祭では「黒パンツ」で男子や男性教諭は勿論保護者、とにかく大勢の前でダンス踊らされて…。走らされて…。狂気…。
盗撮とか、されてたんだろうなあ。あの頃は今みたいに外部からの侵入者を締め出す仕組みもなかったし。今だったら立派に「性被害」と言われているはずだ。みんな「嫌だ」と訴えていたのだから。

「嫌だ」と思っていても、嫌だと言いたくても「それが決まりなんだから、仕方ない」と諦めるしかなかった。子供の頃からずっとそうだった。
自分の意見を主張する人のことを「声がでかい」と揶揄する風潮がある。
でも。やはりこの四半世紀で世の中が少しマシになったのは「声がでかい」人達が「はて?」を言い続けた結果なのだ、と感じざるを得ない。
始まりは小さな「はて?」だったのが大きな波となって名簿は男女混合になり、ブルマーという黒いパンツはなくなったのだ。

これを読んでいる10代、20代の人はこんな私の昔話の時点で既に「昔、ヤバい」と感じているかもしれないが、私の母が若かった時代はもう、ヤバいどころではなかったはずだ。

私の母は昭和28年生まれ。今『虎に翼』でやっている終戦直後の混乱が少し落ち着いた頃の生まれだ。
大正9年生まれの祖母は当時にしては進歩的な考えの人で「女も手に職をつけて自分の力で食べて行けるようになった方がいいから、看護婦さんになったらどうか」と中学3年生の母に勧め、実家を出て大きな街の看護科がある高校に下宿先から通ったらどうか、と提案したのだそうだ。
だが母は実家を出ることに抵抗があり、結局地元の高校の「家政科」に進学した。男子は電気科、女子は家政科という高校だったそうだ。女子は料理、お裁縫、家事に関するあれこれを学んで良き妻良き母になりましょう、という学科。
この選択に、母は70代の今になっても心残りを抱えているようだ。「あの時、大館の高校に行っていれば…」「看護婦さんになっていれば…」とよく話すのだ。

高校卒業後、母は上京して大きな病院の事務職に就く。仕事は出来たようで、当時の女性としては珍しく係長まで昇進した。古びた名刺を見せてもらったことがある。
上司にも恵まれ、院長からも可愛がられ。お給料もそれなりに良かったのだろう。当時の女性としては珍しく、自分の給料で運転免許を取得し、トヨタのカローラを買った。
新宿で初めて生クリームのショートケーキを買い、その味に感動したとか。週末は登山。友達と能登に旅行に行ったが、バスの中にお土産のリンゴを置き忘れて…とか。母の青春の思い出話は、きらきらしている。

だが、25歳を過ぎても結婚をせずに仕事を続けていたのは結局母だけだったらしい。同期は20代前半のうちにみんな寿退職し、お母さんになって。
25を過ぎたら、女は賞味期限切れ。売れ残り。行き遅れ。終わってる。私の若い頃も、まだそう言われていた。
母は、会社の上司(当然男性)からお見合いを勧められた。その相手が父だった。

見合いから半年で結婚って早くない?と訊いたことがある。すると返ってきたのは「お見合いすると、もう断れないのよ」という答えだった。びっくりした。
恐らく話を持ってきたのが職場の上司だったから余計に断れなかったのだろう。怖すぎる。「断れない」で結婚が、人生が決まってしまうのだ。

父と結婚し、母は病院の仕事を辞めた。なんで?と訊いたらやはり「結婚したら、辞めなきゃいけなかったのよ」。そういう決まりがあったの?と訊いたら「決まりはないけど、そうしないと変な目で見られちゃうから」。
怖すぎる…昭和…。
結婚後も別の職場でアルバイトだかパートだかで働いていたようだが、私を妊娠し出産する。
その後も仕事を見つけ、母は働こうとした。だが、できなかった。

近所の「保育ママ」という、都から委託を受けて子どもを預かっている普通の主婦に私を預けていたらしいのだが「この子は泣きすぎるから、もう預かれません。」と突き返されたらしいのだ。そんな話…。
成長した私は、事あるごとに母からその話を聞かされた。半ば恨み言といった感じに。

「あなたが泣き止まないから、お母さんは仕事を続けられなかったのよ」。

何だよ。じゃあ、結婚しなきゃよかったじゃないか。私を産まなきゃよかったじゃないか。仕事、続ければよかったじゃないか。
私、生まれてこなければよかったんじゃないか。
母から恨み言を聞かされ続けた私は、思春期になるとそんな自己に対する存在否定の念を抱くようになった。

母は私が小学生の頃、執拗に私を看護師か介護士にしたいと希望していた。一体何を考えていたのだろう、と今でも呆れる。何をするにもドジで、ノロマで、要領が悪く人とのコミュニケーションも上手くない。内向的で、一人で空想の世界に没頭しているのが好き。空想に耽っているから、ボーッとしている。そんな子が対人の、それも人の世話をする仕事に向いているわけがない。看護や介護の仕事は、人の命がかかっているのだ。
恐らく母は娘の性格や特徴よりも、自分が選ばなかった、選べなかった人生の方ばかりを見ていたのだ。
あの時、大館の高校に行って看護婦さんになっていれば。ずっと仕事を続けられたのに。その念に囚われていたのではないか。
看護師や介護士。ならなくてよかったなあ!と心底ほっとする。なっていたら私は患者さんや利用者さんをミスで軽く一人二人殺してしまう。それぐらい向いていない。確信がある。

何年か前、クローゼットの奥から母が結婚前、病院に勤めていた頃着ていた服が出てきた。
派手な色柄の、今で言う「昭和レトロ」のワンピースが3着。シミと汚れだらけで、どう足掻いてももうゴミとして捨てるしかない代物だったが、確かに素敵なワンピースだった。
今思う。母は、もう着られないワンピースをどんな思いで40年近くもクローゼットの奥にしまい込み続けていたのだろう。
バリバリと仕事をこなし、このワンピースを着て自分で稼いだお金で買ったカローラを颯爽と運転していた頃のことを忘れられなかったのではないか。

私はもう一つ、母から「呪いの言葉」をつい最近まで聞かせられ続けてきた。それが「年相応」という言葉である。

「今日ね、何処其処でフリフリのピンクのワンピースを着たおばさんを見かけたのよ。何考えてるのかしら。」

母はよくそういう、別に関係も必要もない報告をしてきた。またか、と思い流していた。埼玉の田舎にばかりいるからそういう風変わりな人が目につくのだろう、東京に行きゃ変な人なんて掃いて捨てるほどいるのに、と。

「年相応ってものがあるでしょうに」

話の最後は、いつもその一言だった。

コロナ禍が始まった頃、大阪のライブハウスでクラスターが出たという報道があった。感染したのは、50代の人。それを聞いた母はやはりこう言ったのだ。
「50代なのに、ライブハウス…。年相応ってものがあるでしょう」
私はすぐに反論した。あのねぇ、音楽楽しむのに年齢は関係ないの!50代でも60代でも70代でも、ライブハウスに来ていいの!
大体ね、あなたの娘も年相応じゃない服装と髪とメイクなの!ライブハウスにも行ってるの!それがわからない?

はたと気付いた。
あれ?私、知らないうちに母のこの「年相応」の呪いに囚われてた?
だから30代に入った頃、年相応にならないといけないと思ってリネン生地の、アイボリーとかのつまんない服ばっか着るようになった?ロックはやめて、カフェ巡りとか写真を趣味にしようとした?

あっ…

愕然とした。そして同時にまた、亡くなったwowakaさんに感謝した。
リーダーが『SLEEPWALK』で「あたしをやろうぜ」って歌ってくれなかったらさ。
私、もう◯歳だから年相応にならなきゃって、そんなことにばかり囚われ続けていたんだ。

クローゼットの奥の、シミと汚れだらけのもうどうにもならないワンピース。
「年相応」を気にした母はあれをしまい込んで勧められた見合いをし、結婚したのだろう。
「はて?」を言えなかったのだろう。
年不相応な格好をした女性を発見するといちいち私や妹に報告したのは、僻みのような感情込みだったのかもしれない。

もし、母が今の時代の人だったら。
上司から見合いを勧められることはなかっただろうし、結婚したという理由でキャリアに終止符を打つこともなかっただろう。
私が産まれても「保育ママ」なんていう何処の馬の骨かわからないやつではなく、保育園に私を預けることが出来ただろう。
「この子は泣きすぎるから預かれません」なんて理由で突き返されることもなかったはずで、私が「あなたが泣きすぎたせいでお母さんは仕事を続けられなかった」と恨み言を言われ続けることもなかっただろう。
あのワンピースを着続けていても「若作りだな」「あの人、そういうキャラだから」「痛いは痛いよね、知らんけど」くらいで済んでいる可能性は高い。

まだまだ女性が冷遇されている社会ではあるが、それでもマシになってきてはいる。
それはきっと「はて?」を言い続けた人がいたからなのだ。

「そういう時代だったから、仕方がなかったのよ。」

こういうことを言うのは何もうちの母だけではないだろう。
姪が大きくなった時にはまた時代も世の中も変わっていて、もしかすると「何で鴎ちゃんはこうしなかったの」と問われることがあるかもしれない。
その時に「そういう時代だったから、しょうがなかったんだよ。」とは言いたくないな、と思っている。

鴎ちゃんは自分でこうしようと思ってそうしたから、それでよかったと思ってるよ。
そう答えられるような生き方をすることが私にとって「はて?」を引っ込めない生き方に繋がる。
きょろきょろと周りを見回し「変な目で見られないように」とか「みんなと一緒の方が安心だから」とかを気にして生きるより、私は例え変人扱いされても、白い目で見られても自分の好きな服を着て、好きな音楽を聴き、調子を合わせず生きている。その方がいいのだ。

photography,illustration,text,etc. Autism Spectrum Disorder(ASD)