「こだわり」であって障害でない
今日、子供たちの支援をされている人と対話をしました。
僕は、発達障害という言葉が嫌いだとつたえました。
正確ではないから。
「同じことを続けること」にこだわっているだけかもしれない
同様に、
「自分の世界をじゃまされないこと」
「そのままの姿でおいておくこと」
「動き続けること」
「色を比べ続けること」
「ちぎり続けること」
「みんなと笑って楽しい雰囲気にいること」
そういったことに「こだわっている」だけかもしれない。
それを、
「コミュニケーション障害」
「かたずけられない」
「じっとできない」
「絵や粘土を完成できない」
「作業しないでサボっている」
と表現するのは間違いだ。
だったら、普通ってなんだ。
僕は、普通なんてないって思っている。
医師の世界は、ヘンな人だらけだ。
こだわりの人だらけだ。
普通なんてない。
僕はパンを作っている。
夜中でも明け方でも作り始める。
そしてどれもが色も形も中身も変なパンだ。
普通のロールパンを普通に焼いてなにが楽しいんだ。
僕はそう思う。
「なんで、あなたは普通の時間に
普通の私が食べておいしいと思うパンをつくらないの?
食べさせて味を実験しているでしょ?」と聞かれる。
僕にしてみたら、1日の気温の変化のいつにつくるか、
仕事の時間の間に発酵させるにはどうしたらよいか、
食物繊維やタンパク質や脂肪酸をとがらせて
どんな酵母や麹なら培養(発酵)がうまくいくのか、
うまくいったときの生地の感触はどうなのか、
そういった思考と試行を
良い香りにつつまれながらやっているだけだ。
「こだわっているだけ」で、僕には普通だ。
僕は普通じゃないから、パン屋にはなれない。
そして、その性質も変えることはできない。
子どものころから不可能と言われることに突っ込んでいって、
みんなが楽しめるものに変えてきた。
便器やタイルをきれいに磨くと、こすると指でキュッキュと鳴るようなる。
それを競争して、トイレ掃除の一番乗りを皆で楽しむようにした。
だから僕らの当番の3階の階段右側のトイレは、一番きれいだった。
臭い汚いみすぼらしい動物小屋も、共飼育の部屋に変えて
お世話がかかりの女子が増える生き物係りに変えた。
アサガオの栽培では、ツルのネジネジの方向が時計と反対回りだ。
(うろ覚えだから間違いかもしれない・・・)
100個に1個時計回りがあるかも、とみんなにウソをついた。
見つけた人は、ほめられるぞ、と言った。
担任が国語の先生だったから騙されてくれた。
自分のクラスは全員がアサガオを立派に育て上げて、学校1位になった。
植木鉢を買って、2-3個余分に育てた人もいた。
人はこだわると、世話を怠らない。
微妙な巻の人もいたけれど、それは問題ではなかった。
僕は、文鳥を売っていた鳥屋のとなりの、昆虫屋のおじさんに聞いて正解を知っていたけど黙っていただけだ。
校長先生に、全学年に配れたショウジョウバエの幼虫観察牛乳瓶キットに続いてすごく褒められた。
もう時効になったから話せる皆のためになるいたずらは数えきれない。
床ワックスがけ掃除ホッケーだって、机かたずけ競争だって、黒板をぬれた雑巾で拭いたほうが黒板消しよりずっときれいになることも一緒だ。
そのことを発見して、いったん叱られたけど専門の人に耐水性だから固く絞った雑巾なら大丈夫といわれたこととか、いっぱいある。
大人は、見慣れないといったん子供を叱るクセがある。そして、間違っていても子供に素直に謝らない。
雑巾で思いだしたけれど、牛乳を拭いたぞうきんは調べたらタンパクが腐るから匂いがすることを教えてもらった。
父親は、煮たり消毒したりすればいいじゃんと言ったけど、子供だし学校だからできなかった。
だから、用務員のおじさんに聞いて、ずっと清潔な水をながしている給食室の外側の水路に流れないようにひっかけて放置する方法を思いついた。朝、絞ればきれいな雑巾になっている。用務員のおじさんはそこにモップの先を入れていたのだ。その上流をお借りした。
一人で、あれやこれややっていたわけだけど、
いつも「普通でいられないの?」と聞かれ続けてきた。
今もそうだ。
それは障害なんだろうか。
こだわりに過ぎないし、そういった人々がいるから人類は生き残ってきたんだと思いたい。
そういった遺伝子が保存されてきたんだと思いたい。
自分がそうだから。
そして、「普通」なんて概念は妄想で、
「普通」なんて本当はどこにも無い。
無事大人になれた僕はそう思う。
だから、発達障害なんてネーミングは大嫌いだ。
何かにこだわって、一生懸命なだけだ。
何もできない普通といわれる大勢の中に埋没しながら、
他者を区別しても悲しいだけだ。
普通はないのだから、特徴を味わいあうのが人生というものだ。
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