叱る依存がとまらない
公認心理師・村中直人さんの著書『叱る依存がとまらない』を読んでいます。
この本は、日本全体に蔓延している『苦痛に耐えることで人は成長する』という間違った考え方によって、多くの社会問題が発生していること、その考え方が『叱ることへの依存』者をつくり、虐待や体罰や犯罪の増加につながっているということを示唆しています。
読んでいると本当にその通りのことばかりで、今のうちにその考え方を変えないと、日本社会は、人が人を憎み、人と人が殺し合うような荒んだ社会になっていくのではないかと心配されます。
本の中には、さまざまな事例が挙げられていますが、私は自分の身に起きてきた出来事が、この『叱る依存』に由来するものだったと考えると納得できるものばかりだと気づきました。
病弱な私に対する母親の不適切な養育は、母自身の『叱る依存症』によるものだったとわかります。
何せ、私は悪童ではなかったし、わざと母親に反抗するような子どもではありませんでした。
ただ『病弱』で『消極的』で『過敏』だっただけです。
それは私自身ではどうすることもできないものばかりなので、親は私を全面的に庇護する責任があったはずです。
しかし母は、私を叱ったり脅したりすることで、丈夫で積極的な子になると信じていたのです。
だから暗い部屋に隔離し、熱を下げる努力をさせ、そんなことでは友達が出来ないし学校にも行けないと脅したのです。
愛情を込めて!
残念なのは、『叱る依存』にハマる人は、結果的に思うような成果が得られたかどうかには反応しません。
つまり母は、そうすることで私が丈夫になったかどうかには興味がなかったのです。
興味があるのは、私が母の言う通りに『大人しく寝ていたか』どうかということだけ。
そうやって脅すことで私が大人しく言うことを聞いていれば、母の『成功体験』になり、満足するのです。
思い起こせば、私は職場や集団の中で『叱られ役』になることが本当に多かったのです。
職種も違う、集団の目的も違う、構成員も違う集団で、何故か私だけが指導のターゲットになることが多かった。
とても真面目に努力している。
努力しても工夫しても及ばないところがある。
出来るはずのことが、ついうっかり出来なかったことがある。
これらは、人間なら誰しもあることです。
そして私の犯すミスが、致命的なものであったことはほとんどありません。
それによって会社が潰れたとか、業務が滞ったとか、誰かが事故に遭ったなどということは無いのです。
それなのに、私だけがとても悪いことをしているように注意を受ける。
それは何故か?
私が受けた注意に対して、すぐに反省の姿勢を見せたり、謝罪したりするからです。
これは、母が、私ではどうすることもできない身体の弱さを叱り、それに満足し、叱り続けた構図と同じです。
母は私が丈夫になることよりも、私が黙って言うことを聞くことで、目的を達成したのですから。
一例を出すと、ある職場で、私が外部の会議の場で不適切な発言をしたという話が別のところから寄せられました。直属の管理者が、私にその自覚があるかどうか、聞いてきました。
実際には、ほぼ言いがかりに近いことで、その時は管理者の理解を得たのですが、同時に私は「そんなふうに捉えられてしまうんですね!以後言葉には気をつけます」と謝ってしまいました。
するとその後、もっと言いがかりに近い、いや実際には無かったことをあるかのようにして寄せられた苦情に対して、また尋問を受けました。
結局調査をしたところ、本当に根も葉もない嘘だったことが証明されました。
しかしこの時も、「お騒がせしました」と謝ってしまいました。
その後、私に原因があったとしても大したことでは無いこと、イレギュラーで行わなければならないことが事後報告になったこと、極め付けは管理者が私の話を勝手に誇張して捉えたために、自分自身で大変な業務を背負い込んでしまったことについても、謝罪を求められたのです。
むしろ、ほとんどこちらに非の無いことで呼び出されたり、人前で怒鳴られたりしたことを謝って欲しいくらいなのに、結局その管理者に私が謝るというパターンは崩せませんでした。
普段は温厚そうな人で他の人にはヘラヘラしているのに、そのような指導をする時には私にだけ蔑むような表情を見せる。
その差がとても不快でした。
周りに話しても、「あの人がそんな態度に出るのは、よっぽどだったんじゃないの?」と言われるばかり。
この本を読んで、そのメカニズムがよくわかりました。
その管理者は、私が、自分に非の無いことでも謝るので、その反応に反応していただけなのです。
その管理者にとって、起きたことの重大さはどうでも良く、管理者が『akbalを管理できた』という実感が欲しかっただけなのです。
同じように考えると、私がどんなに真面目に頑張っても、何故か非難されてしまうという構図の原因がわかります。
それに対して私は、自分の仕事のやり方や、叱られた人の前ではなく全体での振る舞い方を反省し、神経を使っていたのですから、解決するわけはありません。
そして『叱る依存』になっている人は、叱れば叱るほど、叱る対象者から目が離せなくなってしまうという悪循環が起きます。
管理者が、言い掛かりに近いことまで、私を指導しようとしたのは、私が関わる全てから目が離せなくなってしまったからなのだと思います。
そんなに監視されている中でも、本当に深刻なミスが無かった私は、逆に仕事が出来ていたのかもしれません。
ただ、どうでも良いことまで監視され、指導され続けたら、私は本来の仕事ができない。
だからその職場は早々に辞めました。
行動分析に共通するのは、人間は自分が行動して60秒以内に起きる反応によって、その行動の有意性を判断するということです。
判断というのは、脳を通して行うのではなく、反射的に反応することです。
『叱る依存』者は、叱られた相手の反応を瞬時に捉え、その行動を強化させていることになります。
母にとっては、私が病弱のままであろうが、健康になろうが知ったことではなく、私が母の言うことに黙って従っているということが、私を叱る行動の目的になっていたのです。
管理者にとって、外から寄せられたクレームが解決しようがしまいが関係なく、管理者の言うことに対して私が謝罪をすることが、指導という行動の目的になっていたわけです。
これでは、叱られる側はどうすることもできません。
叱られる側は、電気のスイッチのようなもの。
『叱る』というスイッチを押せば、謝罪や従順という電気が点る。
電気が点らなければ、より強くスイッチを押すだけのことなのです。
はー。ガッカリですね。
でも、実は人間とはこんな単純なことで行動を決めているものなのです。
それを自覚できるかどうかが知性の分かれ目なのでしょう!