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集合的幻想②

自分の人生が充実しているかどうか
成功しているかどうか
は、自分にしかわかりません。
どんなに大金持ちで、不自由のない生活を送っていても、いつも物足りない、不服がある、という人もいるし、
どんなにお金が無くて、カツカツの生活を送っていても、毎日充実して楽しいという人もいます。
つまり、自分の人生が満ち足りているのかどうかは、外見で人が判断できることではないのです。

集合的幻想とは、例えば、
自分にとって人生の豊かさは、人とのつながりや日々の喜びを見つけること、だと思っていても、他の多くの人にとっては、お金や名誉の方が大事だろうと思い込むというもの、だそうです。
つまり、私という人間が感じる喜びや楽しみは、ごく少数派の考えであって、社会の多くの人はそんなことに喜びを感じない、もっと無機質なもの(金、名誉など)が好きで大切にしているに違いない、と思い込んでしまうことを言うようです。

例えば選挙で、どうしても応援したい候補者が居ても、それが野党の少数派であった場合、潜在的にはその候補者を応援したい人が多数居たとしても、どうせ多くの人が、名の知れた与党多数派の候補者に投票するだろうと思って、意中の候補者に投票しない。あるいは、どうせ変わらないから、選挙そのものを棄権する、というような心理です。
そもそも、政治そのものを変えることは難しいから、どんな候補者が出ているのかも知らないし、選挙にも行かないという人がいるかもしれません。
その人の本心は、政治が良くなってくれれば良いのに、と思っていたり、今の政治に不満があったりしても、多数派の意向や動向を勝手に憶測して、自分の意向を取り下げてしまうのです。

選挙に限らず、集合的幻想が負の作用をしてしまうことは、日常のあらゆるところに起きています。

学校では、いじめられている子を助けたいと思っても、多数派には多数派のいじめたくなるような原因があるのかもしれないと思って助けなかったり、横暴な教師に一方的に叱られている生徒が居ても、きっと周りは先生が怒る理由を分かっていて、叱られて当然と思っているだろうと憶測したり。
会社で不正を目にしても、多くの従業員が、その不正を暴いたところで、自分に不利になると思って黙っているのだろうと憶測したり。

そうやって、犯罪行為も不正も、結果的に野放しになって、法も倫理も及ばない無法地帯を作ってしまうのです。

この本では、集合的幻想に陥ることが『悪いこと』ではなく、集合的幻想そのものが、原始時代から人間が生き抜いていくために身につけてきたものであり、抗うことが非常に難しい心理なのだとも説いています。

しかし、世の中を良くするためには、本能的習性だからと言って、集合的幻想に囚われたままで良いわけがありません。

本の中では、その解決策が示されているのですが、それはまたつづきで……


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