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毒にしかならない、お袋のはなし

今回のかきあつめのテーマは「# 毒」。

前回の彩音さんの記事の編集担当をしていて「薬としての毒のありかた」というのが興味深かった。

確かに、麻薬として知られるモルヒネが鎮痛剤として日本でも広く処方されているのは有名な話だし、高い毒性で知られる水銀が19世紀まで薬として使われてきたのも事実である。水銀の高い中毒性が明らかになった現代でも、薬として使っていた人の「プラセボとしての効果」まで全て毒と言えるかは、議論の余地があろう。

彩音さんは、自身の経験を通して「毒性のある話(人)も、身を守る薬になりえる話」「その毒性との距離の置き方について」を書いていた。一方の僕は「毒にしかならない人の話」をしてみようと思う。

お袋は毒性が強い

僕がこれから話す「毒性が強い人」とは、母親のことだ。

話している内容も見てくれもパッと見はその辺のバアさんなのだが、なんというか、なかなか強烈な人なのだ。僕の3人の兄嫁は完全にヤラれ、うちの奥さんも相当に防御壁を高めたが、何度も被災している。

その、何が具体的にヤバいというのが説明難しいのだが、簡単に言うと「モラルがない」「人(モノ)に対するリスペクトがない」「聞き分ける言語能力がない」。そして厄介なのが「異常に心が丈夫」な点である。

奥さんがヤラれてしまっていた以前は、その人格を泣いてもなんでも徹底的に否定してやらなければならないなと、それこそ世直しのつもりで思っていた。ただ、これが無意味であると悟ったのは、この手法が「日本語が理解できる人間にしか通用しない」ということからであった。

今回の話は『耐性』になるかもしれない

んで、今回は「毒」の話なのでそっちにもっていくと、毒耐性の話になる。というのも、僕は幼少期から彼女の毒を浴びているので、結構なことに対して「まぁどってことないかな」と感じているのだ。

これは恐らく兄弟全員が思っていることだと思う。
それぞれの兄弟が嫁さんを実家に連れてきて、お袋も多少は外行き用のツラになる。彼女の毒も普段の50分の1くらいに抑えられているのだが、嫁さんがことごとく体調を崩すのだ。しかし、これは我々兄弟からしたら「この程度の毒」だったりする。

強い毒性の母親をもつ我々は、基本的に毒性質の人間に対して耐性をもっている。ちょっとしたヤバいやつくらいだったら目をつけられたとしても『心のもっていき方』を心得いるのでヤラれることはない。

では、これまでこの性質に感謝したことがあるかというと、そんなことはない。毒は結局「毒」なので、あればあるほど体調が悪くなるのである。

マトモな大人に触れて、両親のヤバさをわかる

繰り返しになるが、幼少期から毒に触れていると、それが普通になる。自分的には小粋な冗談だとしても、人によっては殺傷能力があると捉えられるらしい。これは最近になってわかったことだ。

社会人になって「マトモな大人」と触れたとき、こんなに優しい人がいるのかと思った。そして、僕もこうありたい、なるべく一緒に過ごしたい、そう強く望んでいる。

マトモな彼らと一緒に過ごしたあとで、久しぶりに実家に帰ると、そのギャップでヤラれそうになる。うげぇ、そうだ思い出した。この家から早く出たくて、この毒が辛かったからこそ、一人暮らしをしたかったのだ。

実家に帰る度に体調が悪くなる僕だが、最近あることに気づいた。それは「あぁ、いつまで経っても毒性が弱らないお袋は、もう相手もされない可愛そうな人間なのだ」ということであった。

もう殺してやろうとまでは思わなくなった

「お袋はもう治らない、不憫な人間である」と感じたあの日から、あまり心がざわつくことはなくなった。彼女自身もだが、彼女のまわりにいる人間もいい加減距離の置き方がわかってきたのであろう。うちの奥さんも、お袋の発言で感情を揺らされることは少なくなった。

一時期は殺意に近い感情も持ち合わせたが、自分の人生を棒に振ってまでやりたくないと、行動にはでなかった。そして今ではもう、その毒に対する耐性が完全に確立されてしまったので、考えることも無駄だと思うようになった。もう死ぬまで、あぁやって毒を撒いていればいいのである。

そう考えると、このnoteは彼女に思った最後の怨念のようなものかもしれない。

いつかそれが祓われたとき、この記事も消えるのだろうか。

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