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Willがない人は「1匹の羊」を探せ

はじめに

こんにちは。株式会社ジザイラボ代表の江畑です。
アカツキを辞めて2年経った私が、外からアカツキの皆を応援しながら日々思うことを書きたいと思います。

今日のテーマは「Will」
『Willがないんです。』って人、いませんか?(私もかつてその中の一人でした)Willがなくても支障がない・今やりたいことがある!という人は、そのまま突き進んでください。
本記事は「Willがなくて困っている」「自分がWillだと思っていたことに違和感がある」という人の参考になれば、というお話です。

「失せたる一匹の羊」の話

 ぼくはぼく自身の内部において政治と文學とを截然さつぜん區別くべつするうにつとめてきた。その十年あまりのあだ、うしたぼくの心をつねに領してたひとつのことばがある。「なんじらのうちたれか百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、往きて失せたるものを見いだすまではたづねざらんや。」(ルカ傳 第十五章) 
(略)
かれは政治の意圖いとが「九十九人の正しきもの」のうにあることを知てゐたのにさうゐ相違ない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうに注がれてたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、殘りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいたいなにものであるか―イエスはう反問してる。
かれの比喩をとして、ぼくはぼく自身のおものどこにあるか、うやくにしてその所在をたしかめえたのである。ぼくもまた「九十九匹を野におき、失せたるもの」にかづらはざるをえない人間のひとりである。もし文學も―いや、文學にしてなこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいたいなにによて救はれようか。

福田恆存著作集 第七巻・評論編(四) 日本および日本人より「一匹と九十九匹と」

戦後すぐに文芸評論家として活動した福田恆存つねあり。やがて批評対象を文化・社会分野全般へと広げ、論争家として論壇から「保守反動」と否定され孤立していきます。
福田の代表作と評される「一匹と九十九匹と」では、政治文学を隔たるものとして、聖書の「99匹の羊のたとえ」を持ち出し、とてもざっくり言えば以下のように論じました。

  • 政治とは、万人=99匹羊のためにある。ただ、どうしても1匹くらいハズれる。その羊は政治では到底救えはしない

  • 文学とは、そのたった1匹の羊を救うものだ。自分の中の「失せたる1匹の羊」を綴り、『ああ、これは私のことだ』と、また別の「失せたる1匹の羊」を救うものである

私はこの自分の中の「失せたる1匹の羊」を見出す作業は、福田が論じた75年後の今日において、文学に閉じた話にするには、少し勿体無いと私は感じています。

どこかへ行ってしまったけど、なかなかいいところにいる羊

1匹と99匹の羊の統合

確かに、政治では万人から外れた1匹の羊は救えないでしょう。(そして政治はそれで良いものだと思っています)
ただし、99匹を救う政治家を突き動かすものが、己の「失せたる1匹の羊」から始まっていることは可能です。

それは、私たちが携わる仕事も同様です。大半の国民が同じ課題を共有し、心血を注いだ戦後直後とは大きく変わり、社会課題も、生活の重心も、人それぞれになりました。「働く」ことに自分なりの理由が求められることも多々あります。

自分の仕事や生き方に、己の中の「失せたる1匹の羊」を見出し、場合によっては、その仕事がたった一人の誰かを救うことになる。

それがこのお話の「Will」であり、その人のミッションにつながると考えています。

ハリネズミから「失せたる1匹の羊」を探す

では、「失せたる一匹の羊」はどうやって探せばいいのでしょうか。
己の中を探すしかないので、探し方は人それぞれです。自分の外の世界に羊の消息を求め、いろいろな体験をするのも良いでしょう。

そして、自分の中を探す方法として、ヒントになるものがあります。
それは私たち自身の「怒り」「苛立ち」といった感情です。

私たちは、自分に直接的に害をなさない相手の言動に対して、なぜか無性に腹立たしさや焦燥感を覚えることがります。
それは何故でしょうか。

その解のひとつに挙げられるのが
「私が許されなかったのに、あいつが許されていいはずがない。」です。

『いやいや。別に私は許されたいと思ってないよ?』と思うかもしれません。しかし、遠い昔にその「許されたいはずの私」は旅に出てしまったのです。もうその子の顔も、仕草も、何が好きだったかも覚えていないかもしれません。
そして、その子こそが、あなたの「失せたる1匹の羊」なのです。

羊のことをすっかり忘れてしまった私たちは、その1匹の羊が許されたかったはずの片鱗を見ると、戸惑いを隠せません。時には苛立ちもします。
『この世界では、それは許されないはずだ。』と。
そして、その気持ちの裏にはこう続きます。
『そうじゃないと、あの時の私が救われない。』

かくして私たちは羊のことは忘れ、立派な「ハリネズミ」になります。
あの苛立ちは、許されなかった羊を守る(合理化)ために、世界の方を改竄するという手段をとった「針」だったのです。

では、ハリネズミに救いはないのか?といえば、そんなことはありません。
むしろハリネズミの中身にはぎゅうぎゅうに「願い」が詰まっています。
その針を一本一本取り払い、無防備になったネズミは、不思議なことに真逆の言葉を使って同じ意図の言葉を話し始めます。
『この世界が、それを許してくれるなら、どんなに私は救われるでしょう。』

これが「失せたる一匹の羊」の居場所であり「願い」です。

拭えど、まとわりつく泥の中を生きる

自分には、そんな辛い経験はないと思うかもしれません。
トラウマっぽい言い回しで書いてますが、そんなドラマがなくても実は羊は簡単に消え失せます。

赤ん坊の頃、私たちは万能ですべて許される存在としてこの世に生を受けます。不可能なことは何もなく、全て思い通りになる世界からスタートします。そして、とんでもなく些細なことで、私たちは傷付きます。己の無力さに打ち拉がれます。
そうやって世界と折り合いをつけて私たちは大人になります。
その過程で、本当に些細な何でもないことで、私たちの羊はすぐどこかに行ってしまいまうのです。

そして、羊に去られた私たちは、羊がいない罪悪感の中で生きていくことになります。
期待に応えられなかった。喜びになれなかった。

そのひとつひとつを見つめて、その一匹の羊を迎えに行っても、この羊じゃなかった。また逃げ出した。実はこれは分身で、本体は別の羊だった。などなど。ありとあらゆる手段を講じて、羊は我々の手からすり抜けてしまします。

じゃあ、どうしようもないじゃないか。と思うでしょうが、おそらく必要なのはその迎えにいく過程なのではないかなと、私は考えています。
なので、何度でも迎えに行ってあげてください。
きっとその姿が美しく、新たな別の羊を救うのだと思います。

おどる羊は世界を救う

おどるおどる

とうとうやさしい ひつじかいは、まいごのひつじを みつけました。だかれてかえる このひつじは、よろこばしさに おどりました。

讃美歌「ちいさいひつじが」より引用

聖書の「99匹の羊のたとえ」を歌った讃美歌の歌詞だそうです。
迷子の時は、どんなにか心細く感じていたはずの羊は、羊飼いに抱かれ帰る時には、うれしくておどってしまっています。

ぜひ、自分の中の「失せたる一匹の羊」をおどらせてあげてください。
だっておどっている羊は最強なんですから。


この記事は、『アカツキグループ人事アドベントカレンダー』 の 12日目の記事です。 前回はおおうらさん のアカツキで見た「沿道」でした。

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