【短編】相良くんと石川さん

「相良くん、赤羽さんと付き合ってるの?」
 放課後。清掃当番を割り当てられた家庭科室での掃除中、相方である石川さんがそんなことを聞いてきた。
 びっくりしたぼくはほうきを動かす手を止めて石川さんの顔を凝視してしまう。
 泣いたり怒ったりしてても笑顔に見えるほどいつも口角が上がっている石川さんは、人当たりの良さからクラスの人気者だ。小動物的なかわいさのある彼女が浮かべる柔和な笑みは相手の心を開かせる。
 そんな石川さんがいつものようにニコニコしながらこっちを見ているので、「付き合ってないよ」と答えるとき「でもキスはしてるよ。何度も」と余計なことまでつい口にしてしまいそうになった。
「そうなの? でもわたし見たよ。ふたりがキスしてるの」
 ぼくは思わず身構えた。余計なことを口走るまでもなく、彼女はぼくと赤羽さんの秘密を知っているという。
 まずいと思った。
「嘘だよ。してないもの」
 そうとっさに口にして、胸が痛む。嘘つきはぼくだ。なのに石川さんを嘘つき扱いしている。「見間違いじゃないかな」と付け加え、そうやって言い繕えばなかったことになると考えた自分の姑息さにへこんだ。
「うーん。見間違い、なのかなあ」
「たぶんそうだよ」
「でも赤羽さん、相良くんにまたがって抱きついてたよ。理科室で」
 くらりと世界が揺れた気がした。
 あれを見られてたのか。
「……あれは実験だよ。科学部の。ぼくたち科学部だから」
 どんな言い訳だ。なんの実験なんだよそれは。
「ふうん、そっか」
 しかしその拙い言い訳にそれ以上の追及はなく、石川さんは窺うようにぼくを上目に見た。
「じゃあ相良くんと赤羽さんは付き合ってないんだね?」
「付き合ってないよ」
「キスもしてない」
「してない」
「なるほどなるほど」
 うんうんうなずいて、それから石川さんはおもむろに椅子を一脚抱えると教室の中央に置き、そしてぼくを手招きした。
「座って」
 言われるがままに座る。その目の前に石川さんが立つ。見上げた彼女の表情はにこやかだ。
「ごめんね変なこと聞いちゃって」
「気にしないで」
「でもよかったあ。安心したよ。ふたりがそういう関係じゃなくて」
「なんで?」
「だって赤羽さん、彼氏いるじゃん」
「──え」
 今なんていった?
「あれ。もしかして知らなかった?」
 気づけばぽかんと口が開いていた。間抜けづらをしていたぼくの様子に石川さんが首を傾げる。
「あ、いや……うん」
「うそっ。やば。言っちゃった。ごめん。男子にはシークレットなんだけどまさか相良くんにも言ってないとは思ってなくて。ふたり、すっごく仲良さそうだったから」
 石川さんが誤解するのも無理ないだろう。なにせぼくもそう思っていたのだから。
 ぼくたちは特別だと思っていた。けれど赤羽さんには彼氏がいた。ぼくは知らされていない。じゃああのキスはなんだったんだ。なんで今もぼくにキスをする。いやでもなにをいまさら悩むことがある。理由がわからないなんて元からじゃないか。だけどこれじゃ前提が違ってくる。インモラルだ。だからそれは元からだろう。けれど。
 ぐるぐる思考が巡り、気分が落ちていき、いつしかぼくはうなだれていた。
「ショック受けてるね」
 石川さんの優しい声が頭上から降ってくる。スカートの裾から伸びる石川さんの白い脚が視界にある。華奢な赤羽さんと比べると石川さんはずいぶん肉づきのいい体型をしている。
 ──だめだ、意識してしまうと目のやり場に困ってきた。ぼくは姿勢を戻し再び石川さんと顔を見合わせる。
 彼女は微笑んでいる。
「赤羽さんのこと好きだったの?」
 直球の質問。まずよぎったのは「違うよ」と答える自分の姿。でもすぐに無意味だと思った。だって石川さんの声にはいたわるような色があったから。だからぼくが答えるまでもなく、彼女も聞くまでもなかったんだろう。これはただの確認行為にすぎない。
「うん」
 肯定する声が思ったよりも震えてて、か細くて、本当にショックを受けてるみたいで恥ずかしかった。いや実際そのとおりなのだけど、それをあらわにしてしまう自分が情けなくなる。
「──あはっ」
 聞き間違いだろうか。石川さんが喜色めいた笑い声を漏らしたように聞こえた。その笑顔も、いつもの人当たりの良い表情とはどこか違った。なんだか恍惚としたような雰囲気を感じる。
 なぜだろう。キスをしたときの赤羽さんの表情と重なって見えた。
「相良くんかわいい」
 何を言われているのかよくわからなかった。
「よかったね」
 聞こえているのに言葉が理解できない。なんだって?
「諦める理由ついたじゃん」
 考えが追いつくよりも先に石川さんがぼくの腿にまたがってきた。もっちりとした彼女の太ももの感触を自身の脚に感じる。
「ちょっ!?」
「赤羽さんとしてた実験、わたしもやってみたいな」
 腕がするりと動いてぼくの首に回る。顔が近い。心臓がばくばくする。石川さんは笑顔だ。今日の会話を始めたときから彼女はずっと笑顔だった。なのにどの笑顔も少しずつ違って見える。今見せられているそれには、妖しさがあった。妙な艶めかしさが漂っている。
「ねえやろうよ。どういう実験? 教えてよ」
「それは……」
「言えない? それとも実験ていうのは嘘で、やっぱりあのとき相良くんは赤羽さんとキスしてたのかな。彼氏持ちの赤羽さんとそんな彼女に片思いしてた相良くんがイケない関係になってたりするのかな」
 キスしてたときは赤羽さんに彼氏がいたなんて知らなかったんだと言い訳しそうになったが問題はそこじゃない。石川さんが言いふらすと思っているわけではないけれど、万が一にもそんな風評が広まることは避けなければならない。
 ぼくのせいで赤羽さんに迷惑をかけたくなかった。たとえぼくが赤羽さんを好きで、その彼女に実は彼氏がいたとしても、ぼくのせいでふたりの関係に悪影響が出るのはいやだった。
「ザイアンスの法則」
 そうして出てきたのがそれだった。石川さんはきょとんとした顔でぼくを見る。
「なにそれ」
「人は繰り返し見たり聞いたり触れたものに好感を抱きやすいという心理効果のことだよ」
「ふうん。それの実験がどうしてキスすることにつながるのかな」
「キスはしてない」
「そうだっけ?」
 笑顔でとぼける石川さん。誘導尋問だ。危うく見過ごすところだった。
「まあいいよ、そういう設定ね。それで?」
「ザイアンスの法則は単純接触効果とも呼ぶんだ」
 わかった、と石川さんが無邪気な笑顔を見せる。
「相手に触れて熱を確かめ合えばお互い好きになっちゃうってことだね」
 ぼくはゆっくりと顔を上下させた。
「実験を利用して赤羽さんに自分を好きになってもらおうとしたんだね相良くん」
 再びゆっくりと顔を上下させる。
「素直だね。認めるんだ」
 ゆっくりと顔を上下。
「あはっ」
 今度は聞き間違いでなく、石川さんは楽しそうに声を上げた。
「卑怯だね。でもいじらしくてかわいい」
 何を言われてもぼくはゆっくりと顔を上下させる。
 認めている?
 否。これは思わせぶりに顔を上下させているだけであって、首肯しているわけではない。
 単純接触効果とは身体接触を想定したものじゃない。接触とはあくまで出会うとか見聞きするとかいった行為を指していて、体が触れ合うことを意味しない。意にもかけていない人に毎日触られたって嫌悪感が募るだけだろう。
 でもそれをいうといよいよ実験との関連が説明つかなくなる。
 だから石川さんの理解が間違っていても、ぼくは肯定も否定もしない。
 そもそも赤羽さんと実験なんてしてないしザイアンスの法則ははじめから関係がないのだから説明がつくはずがない。この場を切り抜けられればそれでよく、石川さんがぼくをどう思おうと構わなかった。
「みじめだね?」
 そう言われたときはさすがに動きが止まったけれど、いや違うこれは肯定しているのではないと思い直してぼくは顔をゆっくり上下させた。決して自分がみじめだと認めたわけではない。
 ──おまえはみじめじゃないのか?
 しかしぼくのなかにいる意地悪いぼくがそう訊ねてくる。
 ──みじめじゃないのか。卑怯じゃないのか。
 うるさいな。そんなのわかりきってるだろ。
 この上なくみじめだった。
 特別な関係だと思っていた相手には彼氏がいて、そんなことも知らずにぼくはその子を好きだった。これがみじめでなくてなんだというんだ。
 そして、それでも、ぼくが今までどおりなにも知らないふりをしていれば、赤羽さんはまたキスをしてくれるかもしれない。そんな期待を抱いてしまう自分がどうしようもなく卑怯で情けなかった。
「つらそうだね。ほんとかわいいね相良くん」
 さっきから石川さんはやけに嬉しそうだ。というかこの子は本当に石川さんなんだろうか。ぼくの知ってる彼女とあまりにも違う。
「でもちょっとむかついてきたかな」
「え?」
「そろそろいいよ。赤羽さんのこと考えるのはもうやめよ? 今きみの前にいるのはわたしなんだよ。きみが触れ合ってるのはわたし」
 そういって石川さんがぼくの首に回した腕を引き寄せ体を押しつけてきた。
「な、な、な」
「単純接触効果の実験だよ。どう? 効果出てる?」
 違う。これは単純接触効果とは関係ない。でもその誤解を植えつけたのはぼくだった。
 ぼくの胸に石川さんのそれが当たる。
 触れた部分の感触は意外にも固かった。けれど石川さんのシャツの下で彼女の胸が自在に形を変えるのが服の上からでも見て取れて、薄い布に覆われたそれがとてつもなくやわらかいのが想像できてしまって、それでああこの固い感触はブラジャーかと納得した。胸が大きい子はしっかりした素材のブラジャーをするから上から揉んでもごわごわするだけだぞってクラスの男子が話していたのを不意に思い出す。あいつが言ってたの、本当だったんだな。
 いかんそうじゃない。分析してないでなんとかしないと。
 石川さんはいまや完全にぼくに抱きつく姿勢になっていた。彼女のあごがぼくの肩口に乗っている。やわらかい髪がぼくの顔をくすぐり、甘い香りにくらりとする。なんで女の子っていいにおいがするんだろう。だめだ。気をしっかり保て。やわらかくて熱い体なんて気のせいだ。意識するな。
「──石川さんは」
「ひゃっ」
 短い悲鳴を上げてびくんとはねた石川さん。彼女の顔がぼくの顔の真横にあるので、話すと自然に耳元で囁く形になってしまう。驚かせたようだ。
「ごめん」
「ううん。なに?」
「石川さん、ぼくを好きなの?」
 石川さんの動きが止まる。
 どうだ引いただろう。唐突に自意識過剰な質問をすることで相手を我に返らせる作戦だ。
 密着していた石川さんの体が離れ、彼女の顔が真正面にくる。顔を下げているのでどんな表情をしているのかは見えない。いつもの笑顔で、けれど冷たい目をしているのかもしれない。「勘違いしないでよ。キモ」とか言われちゃうんだろうか。うわあ、想像するだけでへこむ。
 しかし、ようやく見えた彼女の顔は笑っていなかった。
 垂れた前髪の奥で、潤んだ瞳がぼくを見上げている。頬が赤く染まっている。唇は引きむすばれてへの字に曲がり、拗ねた子供のようだ。
「──そう見えたの?」
 窺うように恐る恐る口を開いた石川さん。なんだか怯えているようにも感じられる。
「見えた、っていうか……」
「違うの? 相良くんを好きなようには見えなかった?」
 今度は怒りだした。いや、しょんぼりしてる? 笑顔じゃない石川さんのはじめての表情を次々と目の当たりにして、どうすればいいのかわからなくなる。
「わたしが相良くんを好きって、どうしてそう思ったの?」
「いやその……」
 ぼくは口ごもる。石川さんを引かせるために言ったとはもはや言い出せなくなった。
「……単純接触効果を試すってことはそういうことなのかなって思っただけで……」
 それらしい理由を口にしてみた瞬間、石川さんの顔がますます赤くなって、眉間にしわが寄っていった。怒っているのか、それとも泣くのを我慢しているのか。いずれにせよぼくは間違えたらしい。
「違うんだよ」
 石川さんの目から涙がこぼれた。
「わたしは前から相良くんが好きだったんだよ」
「うん」
「でも相良くんが赤羽さんを好きなのは気づいてたから。だから言うつもりなんてなかったんだよ。ふたりの間に入るつもりなんてなかった。わたしに振り向かせようなんて思ってなかった。ほんとだよ」
「うん」
「でも見ちゃった。赤羽さんと相良くんが抱き合ってるの。そしたらなんか、わけわかんなくなっちゃって。だって赤羽さん、彼氏いるはずなのに」
 石川さんの声がどんどん震えていく。
「実は相良くんが赤羽さんの恋人ってオチかなって思おうとしたんだ。それなら全部丸く収まるでしょ。でも相良くんは『付き合ってない』って答えた。隠してるわけじゃないってすぐわかったよ。だって赤羽さんに彼氏いるって知ってめっちゃショック受けてたもん。演技じゃないことくらいわたしにもわかるもん。へこんでる相良くん見てたらさ、なんかすっごく悔しくて、ますますわけわかんなくて、相良くんにいじわるしたくなっちゃったんだ」
「うん」
「だって相良くん、すっごくいじらしかったから。赤羽さんばっかりずるいなって。相良くんの視線を独占して、部活でも一緒で」
 石川さんのかわいい顔がくしゃりとゆがみ、つぶらな目からぼろぼろと涙があふれていく。
「ずるいよ。彼氏いるのに。相良くんは赤羽さんのことずっと見てるから、わたしが見てることなんて気づいてくれないのに。しかも赤羽さんの彼氏のこと知ってるのかと思ったら、それでも一途に赤羽さんのこと好きでいるんだと思ってたら、相良くん知らないんじゃん。なんだよそれえ。相良くんかわいそうじゃんかあ」
 わんわん泣き出す石川さん。思わず頭をなでたら、抱きついてきてぼくの胸に顔をうずめてくる。そのまま泣きじゃくる彼女をなで続ける。手を止めると「やだあ。なでてえ」とねだられるのでしばらく続けた。
「──ごめん。落ち着いた」
 ほどなくして、すんすん鼻をならしつつもようやく泣き止んだ石川さん。目を真っ赤にして、ぼくのシャツを見つめている。視線の先には彼女の涙やらなにやらでしみができている。石川さんは少しばつが悪そうに自分のシャツの袖でぐしぐしと擦ってくる。
「赤羽さんと同じことしてみたかったんだ。ただそれだけ。ほんとだよ?」
「わかってる。石川さんはぼくみたいに卑怯じゃないからね」
「ふふ」
 石川さんはなんだか久しぶりに思える笑顔を見せ、それからふと顔を下げた。頭をぼくの胸にトンとつけてくる。
「石川さん?」
「違うよ」
「え?」
「わたしだってずるい子なんだよ」
 石川さんが顔を上げる。鼻と鼻がぶつかりそうな距離に彼女の顔がある。まつげが長くて、色素の薄い瞳がきれいだった。
「……赤羽さんとキスしたんでしょ?」
 窺うような上目。祈りめいた視線。彼女はきっと知っているのだろう。
「……してないよ」
 だからぼくは再び嘘をついた。
 石川さんの目から一瞬、光が消えた。失望させただろうか。罪悪感で胸が痛む。ばればれの嘘をつく男なんてろくなものじゃない。石川さんに嫌われたらと思うと悲しかった。
 でもこの嘘はぼくのためじゃない。赤羽さんのための嘘だ。赤羽さんを守るためならぼくの罪悪感なんてどうでもよかった。
「わかった。そういうことでいいよ」
 いつもの笑顔の石川さん。ようやくわかった。この笑顔は彼女の仮面なのだ。ぼくは石川さんのことをなにも知らないなと思う。今日、ほんの少しだけ彼女のことを理解した気がする。
「わかってもらえたならよかった」
「でも代わりにわたしのお願いも聞いてもらいたいな」
「うん。なに?」
「わたしのはじめて、もらってほしい」
 そういったときの石川さんは笑ってなかった。真剣で、泣きそうで、怒ったようで、懇願するようでもあった。
「……えっと、それは」
 ぼくが口ごもっていると、石川さんは首を傾げたあとなにかに気づいたようで「あ!」と叫んだ。
「キス! ファーストキスのことだからね!?」
「わかってるよ」
 ぼくだって別にあっちを想像したわけじゃない。戸惑ったのは、そんな大切なものをこんなふうにもらっていいのかためらいがあったからだ。石川さんは雰囲気に流されているだけではないか。
「……してよ。お願いだから」
 けれど石川さんはすっかりその気だった。目を閉じてあごを少し上げ、唇を差し出してくる。しかし積極的に振る舞っているように見えても実は恥ずかしいのだろう、頬が桜色に染まっている。眉根に力が入っていて緊張しているのがわかる。
 それでもぼくにはじめてをあげたいと思ってくれてる。
 そんな彼女の姿は可憐でかわいかった。愛おしいとも思った。我ながら現金で虫が良い。さっきまでは赤羽さんに彼氏がいたことであれほど打ちひしがれていたくせに。今は自分を好いてくれる女の子をかわいいと思っている。それが元からかわいい石川さんなのだから、かわいさも倍増だ。
 いいじゃないかキスくらい。してほしいと言ってるんだから。してあげなかったら恥をかかせることになるぞ。おまえだってしたくないわけじゃないんだろう。
 内なる声に突き動かされるままに、ぼくは両手で石川さんの顔に触れた。びくりと体を震わせるも、そのまま目を閉じている石川さん。いいんだな本当に。ぼくは首を傾けながら自分の唇を彼女のそれに近づけていく。ぼくも目を閉じる。まもなくぼくの口が石川さんの口に触れる。彼女のはじめてをぼくがもらう──
「……なんで?」
 うなだれたぼくの頭上から降ってくる石川さんの声。感情を抑制しているが、それでも震えている。ぼくは彼女の顔を見る勇気がない。
 できなかった。
「……もらえないよ」
「どうして? わたしがいいって言ってるんだよ? 相良くんにもらってほしいって思ってるんだよ? なのに」
「だって。はじめてって、特別だ」
 石川さんのファーストキスをもらうのに、ぼくが考えたのは石川さんのことじゃなかった。もちろん赤羽さんのことでもない。
 たばこと酒のにおい。肌に当たるひげの痛み。腐ったような唾液のかおり。口内を蹂躙するように蠢く舌の感触。
 そんなことをいつまでも鮮明に思い出してしまうくらい、はじめてのキスって特別なものなのだ。そのはずだ。
 石川さんの大切なそれを、ぼくなんかが穢していいわけがなかった。少なくとも今のぼくにその資格はない。
「……そっか。わかった」
 石川さんがぼくの上から降りる。
「ごめんね困らせて。こんなつもりじゃなかったのに。あーあ。どうしちゃったんだろ。ふたりが抱き合ってるの見ちゃってからずっと変なんだ」
 潤んだ声でそういった石川さん。
 最後に寂しそうにつぶやいた一言で、ぼくは今日一番の胸の痛みを覚えた。
「……こんなふうに気持ち伝えたくなんてなかったな」
 ぼくのせいだ。赤羽さんを守るためなんていう大義名分もなにもなく、ぼくはただ単純に石川さんを傷つけただけだった。
「ごめんね。今日のことは忘れてもらえると嬉しいな」
「……それは」
 そのまま石川さんがどこかへ消えてしまいそうで、ぼくはたまらず顔を上げた。
 彼女は背中を向けた。その表情は窺えなかった。
「ごめん。今は顔見られたくないかな」
「……こっちこそ、ごめん」
「ううん。わたしのほうがごめん。ほんとごめん。明日には戻ってるから。いつものわたしのはずだから。だから、これまでどおりにしようね。あっ、赤羽さんとのことはだれにも言わないから。安心してね。……じゃあ、もう帰るね。またね相良くん」

石川さんが帰ったあとの家庭科室でひとり、ぼくは椅子に座ったまま机に突っ伏していた。
「……ちくしょう」
 そうつぶやいてみたら無性に自分を痛めつけたくなり、衝動的に額を天板に打ちつけた。
 ガンと激しい音がだれもいない教室に響く。けっこうな勢いだ。当然、痛かった。ぶつけた箇所からじんじんと痺れが広がっていく。
 けれど耐えられる。こぶはできるかもしれないけれど血すら出ていないだろう。無意識に加減しているからだ。
 どうせやるなら額を割るつもりでやれよ。半端もんが。ここでも逃げるのか。やれ。痛めつけろ。やれ。
 そうやって自分を煽る声がするけれど、それ以上はやめておいた。
 自傷行為は癖になる。自分を罰している気分になれるから。そうすればいつかだれかが赦してくれる、そんな気がしてくる。
 けれど結局のところ、どこまでいっても自己満足にすぎないのだ。
 ぼくが痛めつけられて喜ぶのはぼくを嫌いなやつだけだ。たとえばぼくとか。
 ぼくを好いてくれる人たちは悲しむということを知ってからそういったことは控えている。石川さんもたぶん悲しんでくれるだろう。これ以上彼女を傷つけたくなかった。
 掃除のあとは部活の予定だった。でも今は赤羽さんと会う気になれない。動揺を隠し通せる気がしない。きっと変なことを聞いてしまう。そうしたら赤羽さんのことまで傷つけてしまうかもしれない。そんなの、いよいよ耐えられない。
 やっぱりぼくは卑怯だなと思う。赤羽さんを傷つけることよりも、傷つけたあとの自分のことを心配している。
 そんなことを考えながらぼくは家庭科室を出て、理科室とは逆方向の昇降口へと足を向ける。

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