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波多野秀治の辞世 戦国百人一首76

波多野秀治(はたのひではる)(1529?-1579)は丹波国(現在の兵庫県あたり)の大名で八上城主であった。
波多野氏の最後の当主となってしまった秀治だが、彼は明智光秀を手こずらせた武将として知られる。

76 波多野秀治

弱りける心の闇に 迷はねばいで物見せん後の世にこそ 

弱ってしまった心の闇に迷うことがなければ、
目にもの見せてやるわ後の世に(恨んで後世に化けででてやる)

秀治は、1568年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛した時に、赤井直正と共に信長の家臣となっている。

やがて将軍・足利義昭と織田信長の間が険悪になってくると、丹波の国衆たちの中で義昭に味方する者が出始めた。
秀治と同時期に信長の家臣となった赤井直正などもそのうちの1人である。

そこで、波多野秀治は1575年に織田信長から丹波平定を信長に命じられた明智光秀の軍に加わり、丹波での織田氏への抵抗勢力の討伐を行うことになった。

だが、これは仮の姿だった。
裏で丹波国の国衆たちと結んでいた秀治は、1576年1月、突如として信長に反旗を翻す。赤井直正の黒井城を攻めていた明智光秀の軍勢を背後から攻撃し、撃退してしまったのである。これを黒井城の戦いという。

信長は激怒した。

今度は光秀に大軍を与え、彼に1578年に丹波を再度攻撃させた。
兵力・物量・人材では圧倒的に劣る秀治だったが、八上城に籠城し、光秀軍の猛攻に1年半も耐えたのである。
しかし、長引く籠城に兵糧は尽き、数百という餓死者を出した。
さらに、波多野氏に味方していた丹後・但馬の豪族たちが撃破され、光秀の調略によって織田家に降伏する国衆も出てきた。

1579年、明智光秀が提示した「領地としての丹波国と家の存続を保証する」という条件で、ついに波多野秀治は降伏・開城したのである。

降伏後の波多野秀治と弟の秀尚の身柄は安土城へと送られた。
しかし、迎えた織田信長は、秀治たちの裏切り行為に対して「侍の本分を分かっていない」と言い放ち、1579年6月2日に安土の浄巌院・慈恩寺で2人を磔にしてしまったのである。

秀治の辞世は、信長に向けたものだった。
死んで化けて出ると非常に強い怨みの籠もった歌となったのにはそういう経緯があったのだ。

秀治が磔となった日は1579年6月2日であった。
さて、織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたのは3年後の同日、1582年6月2日。

秀治が化けてでたのかもしれない。