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頓阿の辞世 戦国百人一首㊴

頓阿(とんあ)(1289-1372)は、鎌倉時代後期から南北朝時代に登場した僧であり、歌人でもある。俗名は二階堂貞宗。
二階堂家は、藤原南家末裔であり、源頼朝の執事を務めて以来代々鎌倉幕府の執事を勤めた家系であった。

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   憂き身には思ひ出ぞなき 敷島の道に忘れぬ昔ならでは

つまらない我が身には思い出など無い。和歌の道に刻んだ昔のことだけは忘れないが

「敷島の道」というのは、日本古来の道の名前だが、そこから転じて「和歌の道」、「歌道」の意味となる。

歌道にひたすら打ち込んだ彼の生涯をシンプルに表現した辞世だ。

頓阿が出家したのは20歳ごろのことであり、比叡山で天台宗を学び、高野山で修行した。20代の後半には金蓮寺の浄阿に入門して時宗僧となった。
漂泊の生涯を送った西行(鎌倉初期の僧侶・歌人)を慕ってその史蹟を巡って諸国も行脚した。

歌の才能は20代の頃より既に高く評価され、慶運・浄弁・吉田兼好と共に和歌四天王の一人とされている。
室町幕府初代将軍・足利尊氏、第2代将軍・義詮や、摂関家当主である二条良基などからも厚遇されたが、彼が中央歌壇で活躍するのは、晩年のことである。

将軍・足利義詮の時代に後光厳天皇の命により編纂された勅撰和歌集『新拾遺和歌集』は、選者だった二条為明(にじょうためあきら)が亡くなった後に、76歳の頓阿が引き継いで完成させた。
頓阿の歌は『続千載集』を初出として、以降勅撰和歌集に40首以上が選ばれている。

風来坊のような野僧にすぎなかった頓阿が、その歌で勅撰和歌集に選ばれるほど成功したのは、純粋に彼の歌の水準が高かったからだ。
彼が生涯繰り返した実体のある旅と、彼が憧れた古典の世界の旅が歌の中で見事に融和しているところに独特の世界があった。

たとえば。

頓阿が詠んだ「田子の浦」の歌の全ては、万葉集に登場する山部赤人の歌を本歌としている。

朝ぼらけ霞へだてて田子の浦に打ち出でてみれば山の端もなし

うっすらと夜が明ける頃田子の浦に出て見れば、霞がかっているために視界は遮られ、富士山の稜線もない

【山部赤人による本歌】
田子の浦に打ち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

赤人の歌を踏まえ、誰もが美しい富士、雄大な富士を想像する中で「見えない富士」を歌った斬新な視点。
実際に旅をしたその者だけが知る景色との出会いである。
想像でしか旅をしない者には「見えない富士」は見えないのだ。

「歌の道」を意味する「敷島の道」も、頓阿にとっては、それに加えて彼がしてきたバーチャルとフィジカルな旅を集約した道でもある。
この世での最後の歌に「思い出などない」と潔く言い捨てたのは、彼が打ち込んだ「敷島の道」ほど豊かな旅はないということを本人が知っていたからだ。