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安藤九郎左衛門の辞世 戦国百人一首91

1566年、上野国の箕輪城は武田信玄の軍による総攻撃で落城した。
安藤九郎左衛門あんどうくろうざえもん(?-1566)は、そのときの箕輪城主だった長野業盛ながのなりもり(1544-1566)の家臣である。

老いの身はいづくの土となるとても君がみのわに心留まる

年老いたこの身がしかばねとなり、どこかの土となってしまっても、
心は主君のいる箕輪に留まり続けるのだ

上野国の箕輪城(群馬県高崎市)は、1512年もしくは1526年に長野氏によって築城されたと言われている。

関東管領山内上杉家に仕え、箕輪城主長野氏の全盛時代を築いたのは長野業正ながのなりまさ(1491?-1561)である。彼には、上野国西部の豪族たちを集めた土着の武士団「箕輪衆」があった。甲斐国(山梨県)の武田氏は何度も箕輪を攻撃するものの、長野氏のテリトリーをものにすることができず、煮え湯を飲まされ続けていた。
1559年にも、武田信玄は長野業正に撃退されている。

1561年、長野業正が病死。まだ若い3男だった業盛が家督を継いだ。
すると業正の死を好機とした武田信玄は、2万とも3万5000とも言われる兵で上野国に侵攻。
箕輪城の出城(本城の外にある要所に築かれた城)だった高浜砦たかはまとりでは、武田軍の那和無理之助なわむりのすけの手勢約200騎に襲われてしまった。

そのとき、100騎を引き連れて箕輪城から砦の救援に向かった老将がいた。それが安藤九郎左衛門である。
100騎は無理之助の軍と激しくぶつかり、九郎左衛門たちは高浜砦を奪還。なかなか諦めない武田軍をさらに、3度も追い落としたのである。

ところが九郎左衛門の部隊が、逃げる武田軍を深追いした。
その際に武田側から狙い撃ちされ、安藤九郎左衛門までもが討ち取られてしまったのである。

そしてついに老将の首が取られようとしたとき、彼の甲冑の下から血に染まって見つかったのが上記の辞世だった。

その後の攻防で、健闘していた長野業盛の従兄弟の長野業通の鷹留城たかとめじょうも、やがて落城。支城や砦など、長野氏にとって重要なポイントが次々と落ちていくと、箕輪城は孤立した。頼みとしたのは、上杉謙信からの援軍だったが、ただ待つばかりではいられない。

箕輪城主の長野業盛は、2万とも3万5000とも言われる武田軍に対し、たった1500という寡兵で箕輪城に籠城した。よく抗戦し、最後には城主自ら城外に打って出る奮闘ぶりを見せたが、城は陥落。当時19歳とも23歳とも言われる業盛は以下の辞世を残し、一族や家臣ともども御前曲輪の持仏堂で自刃したのである。

春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪の里かな

若い主君長野業盛と老いた家臣安藤九郎左衛門。
立場の違う2人の辞世に「箕輪」が登場する。
それぞれの立場で迎えた2人の最期の思いは、心のよりどころである箕輪の城に寄り添っていた。

今では、群馬県高崎市に国指定史跡とされている箕輪城跡。
日本百名城のひとつとして知られ、現地には復元された城門や、古い石垣、濠などの跡が残っているが、城郭はない。
現在の城跡とは、徳川家康に仕えた四天王のひとり、井伊直政(1561-1602)が1590年の小田原征伐後に入城し、近代城郭として整備したときの遺構である。

高崎市箕郷町にある箕輪城跡では、「箕輪城まつり」が秋に開催される。
祭では、甲冑姿の男たちによって長野氏と武田氏の戦いが再現されるのだ。箕輪衆たちが長野氏のもとに集結し、熱く戦ったあの時代は忘れられることはない。

1566年の秋、長野業盛と安藤九郎左衛門が最後に見た箕輪城の姿とは、どのようなものだっただろうか。