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足利義政の辞世 戦国百人一首㉒

足利義政(1436-1490)は室町幕府第8代将軍である。
我々にとっては「銀閣寺」を作った人物といったほうが通りが良い。

足利義政 1

    何事も夢まぼろしと思い知る身はうれひもよろこびもなし 

死を前にした自分にとっては、全てのことが夢まぼろしだったのだと思い知る。今となっては悲しみも喜びもない

第6代将軍・足利義教(よしのり)の5男で庶子だったため、当初義政は将来の将軍候補ではなかった。
母方の一族である公家の烏丸資任(すけとう)の元で育てられた。
1441年、父がに赤松満祐に暗殺され、後を継いで第7代将軍となった兄の義勝も2年後に死去してしまう。
そこで義政が将軍後継者と決まり、1449年に元服するとすぐに第8代将軍に就任した。

一般に、足利義政に対する政治家としての評価は非常に低いと言わざるを得ない。

将軍就任当初の義政は政治を主導し、守護たちの家督相続などの内紛についても積極的に介入していた。
しかし、次第に彼の思うように世を回していくことが困難となってくる。
征夷大将軍という地位にありながら、管領や親族の専横を許し、正室の日野富子も政治に口を挟むようになってしまった。
嫌気が差したのか、無力感にさいなまれたのか、やがて将軍・義政は政治を顧みなくなった。
世情は楽観できるような状況になかった。
戦火・飢饉・災害に民衆が苦しんでいたのだ。
だが義政は、邸宅や日本庭園の造営、芸能や酒宴に溺れ、政治よりも文化的な活動ばかりに莫大な費用を投じて没頭するようになってしまったのである。

すでに20代で隠居を考えていた義政は、跡継ぎがなかったため、出家していた弟・足利義視を還俗させて後継者にした。
その後に日野富子との間に実子・義尚が生まれると、富子は俄然義尚を次期将軍に推した。
足利将軍家の中で義視対義尚の将軍後継問題が起きることになった。
11年もの間続いた応仁の乱が始まったきっかけの一つは、将軍のお家騒動である。
さらに、細川勝元と山名宗全の対立、畠山氏のお家騒動がからまって、天皇や幕府までが入り乱れた。
足利義尚・細川勝元派、足利義視・山名宗全派に分れ、全国の守護までもがそれぞれの利害のために走り回る戦となり、京は長く火の海となった。
これが応仁の乱。

しかし、問題の渦中の人物の1人であるはずの義政のスタンスは傍観者だった。
わび・さびを重視する東山文化への功績は評価されるが、正室の日野富子とも別居して、好きなことだけに生きた。
民衆の困窮には目を覆ったまま、ただただ趣味の庭園や東山山荘(のちの銀閣寺)づくりに没頭したのだ。

将軍であるのに抑圧され、それらしい行動を許されなかった将軍である。
気の毒ではある。
だが彼はいつの頃からか、自分から政治に関わる気力もなくしていた。
1490年、室町幕府第8代将軍・足利義政は亡くなった。享年55。
彼が銀閣寺の完成を見ることはかなわなかった。