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足利尊氏 最期の言葉 戦国百人一首⑲

室町幕府初代将軍・足利尊氏(1305-1358)が死の前年に書き残した21箇条からなる『等持院殿御遺言』の中の一節である。
最晩年の遺言ということで、足利尊氏の最期の言葉として採り上げることにする。
足利尊氏は、八幡太郎義家から続く源氏の血を受け継ぐ子孫だ。
正統な血統とカリスマ性の両方をもった武将であった。

足利尊氏2

文武両道は車輪の如し 一輪欠ければ人を度(わた)さず 
しかれども、戦場に 文者(もんじゃ)は功なき者なり


文武両道は車の両輪のようなものである。一輪だけでは人を運べないのと同様で、片方だけを身に付けても人として十分ではない。
だが、戦場では学問ができるだけの者は役立たずだ

この言葉には、
「国を治める者は学問を身につけるべきだ。だが、戦をなりわいとする身分の低い武者には学問などは無用。中途半端な学問をかじっていても口先だけの者となる。文は国を治めて大平の世にするために用い、武は国が乱れたときに用いるのだ」
といった内容が続く。
随分ストレートな言い方だが、間違ってもいないだろう。
高慢に感じないのは、幾多の合戦を経験し、実際に幕府のトップとして国を治めた人物の言葉だからだろうか。

1333年、一度は鎌倉幕府倒幕計画が知れて島流しにあった後醍醐天皇が流刑地・隠岐(島根県)から脱出した。
再度鎌倉幕府に戦いを挑んだのだ。
尊氏は幕命で天皇の軍を討伐するはずだった。
だが、丹波、篠村八幡宮で反幕府軍を立ち上げ、六波羅探題を討ち、鎌倉幕府と北条一族を滅亡に導いたのである。
当時、鎌倉幕府はすでに武士たちの信用を失っていたのだった。

尊氏が援護した後醍醐天皇は、建武の新政を開始する。
だが尊氏は、武士の立場を理解しない後醍醐天皇とやがて対立。
持明院統の光明天皇を立てて足利幕府を樹立し、征夷大将軍となった。

足利尊氏は微笑む男だった。

幾多の戦闘をくぐり抜けてきた武将・足利尊氏は、不思議なくらい命への執着が薄かった。
戦闘では危機に直面すればするほど微笑む。
矢が雨のように降る戦場で、無防備に立ち尽くす尊氏に家臣が身を守るよう促しても、笑って取り合わなかったこともある。
合戦の最中、そんな場面を目撃した尊氏の近臣たちは「また例の笑みが」などと話題にしたという。

「勇敢」とも違った。

尊氏は、合戦で苦戦するとあっさり自害しようとする。
自分の命に全く重みを感じていない様子に、彼の周辺の者たちを大いに慌てさせた。

魅力と言ってよいのか、彼には不思議なところがあった。
・裏切り者も降伏すれば何度でも味方に迎え入れる
・自分の手元に何も残らないほど金銀、武具や馬などの贈り物を次々に人に与えた
・戦功の恩賞も気前よく与え、同じ所領を間違って2人に与える失敗をするほどだった

戦場でも戦場外でもとにかく無頓着なのだ。

突然出家しようとしたこともある。
武士の最高位にありながら、それに胡坐をかくような人物ではなかった。
彼の視線はいつも人と違うものを捉えているのだった。

どこか家臣に好かれ、彼らが喜んで命を投げ出すカリスマ性が尊氏にあった。

だが一人だった。

尊氏は、なかなかの芸術家で勅撰歌人・武家歌人としての側面もあった。
名歌を残しているが、それらを差し置いて紹介したい彼の歌が以下の一首だ。
実は、この歌を『戦国百人一首』の一つとして紹介したいくらいだった。

よしあしと 人をばいひて たれもみな わが心をや 知らぬなるらん

皆、自分のことを好き勝手に言うが、俺の気持ちなど誰もわかっていない

孤独なカリスマのふとした本音をこの歌に感じる。