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立花道雪の辞世 戦国百人一首④

豊後国の戦国大名・大友宗麟が力を持ったのは、智勇節義を兼ね備えた立花道雪(1513-1585)が仕えていたからだという。
道雪は戸次鑑連(べっきあきつら)もしくは戸次道雪と名乗っていた。

鉄の弓末

異方(ことかた)に 心ひくなよ 豊国の
   鉄(かね)の弓(ゆ)末に 世はなりぬとも

「決して敵に心ひかれるな。たとえ豊かだった豊前・豊後の国にとって過酷な世になったとしても(大友家への忠節を全うするのだ)」

道雪は大友宗麟に仕えた猛将である。
1585年、筑後国猫尾城など筑後諸城を攻落したあと、柳川城攻めの最中に高良山の陣中で病死した。

彼の遺言は
「我の遺骸に甲冑を着せ、敵陣に向けてこの地に埋めたあと撤退せよ。もしも命に背けば悪霊となって祟るだろう」
であった。

その場で殉死することも考えた家臣たちだったが、道雪の家督を継いでいた立花宗茂のことを考え、殉死を諦めた。
そしてあえて遺言に背くことにしたのである。
つまり亡くなった道雪を敵地に残して撤退するのではなく、遺骸を領地に連れ帰ることにした。
もしも祟りが起きるならその時には喜んで受け入れよう、と決めたのだった。

道雪の棺を運びながらの撤退中、不思議なことに敵の島津軍からの追撃の邪魔は入らず、立花山城への帰還に成功した。
なぜなら敵の島津軍さえも道雪の死を悼み、喪に服していたからであった。

かの武田信玄も道雪に会ってみたいと希望したほど、道雪の武勇・武略は高く知れ渡っていた。
主人の大友宗麟が凶暴な猿を使ってわざと家臣を困らせた折には、道雪が自分にけしかけられた猿を叩き殺し、諫言して主人を反省させたこともある。家臣も大切にした道雪は多くの者に尊ばれ、義に篤い勇士でありかつ人格者でもあった。

年代ははっきりしないが、あるとき戸外で昼寝をしていると夕立に遭い、大樹の下で雨宿りした際、枕元に立て掛けていた刀で雷の中にいた雷神を切った。
そのときの後遺症で左足が付随になったとも下半身不随になったとも言われる。
それでも勇猛に馬を駆って戦に乗して戦う彼のことを人は「雷神の化身」と呼んだ。

雷神を切った道雪の愛刀・千鳥は、名を雷切丸と改め、立花家に現存する。
雷切丸の実物には刀身に変色した部分があり、本当に雷に打たれた可能性が指摘されている。
老齢になってからは、輿に乗って戦場で指揮をしたという道雪。

生涯の合戦は37戦、37勝。
強い。