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伊香賀隆正の辞世 戦国百人一首㊻

伊香賀隆正(いかがたかまさ)(?-1555)は、大内氏の重臣だった陶晴賢(すえはるかた)の家臣であり養育係だった。
そして、自分が成長を見守り続けてきた主・晴賢が自刃したときにその介錯を行った人物だった。

伊香賀隆正 46

 思いきや千年をかけし山松の 朽ちぬるときを君に見んとは 

千年続くと思っていた山松が枯れる時をあなたの時代に見ることになるとは

伊香賀隆正は一般にはあまり知られていないが、1555年の厳島の戦いでは、主君・陶晴賢に最後まで従った勇将である。
実権を握っていた大内氏の滅びていく「まさか」の瞬間を無常観と共に辞世に詠み、隆正自身も逝った。

隆正が仕えた大内氏の重臣・陶晴賢は、大内家の中の主導権争いに勝ち、大内家内の軍事を担っていた。

ところが、1554年には晴賢率いる大内氏は敗戦を重ね、安芸国は毛利元就の支配下に堕ちてしまったのだ。

1555年、陶晴賢(大内氏)と毛利元就が戦った「厳島の戦い」は、晴賢が2万とも3万とも言われる大軍を率い、毛利方の宮尾城を攻略しようと厳島に海から侵攻したものだ。
しかし陶軍は、毛利軍によって背後と城側の両方から一斉に奇襲され、総崩れとなってしまった。
毛利についていた村上水軍が退路も断ったために、晴賢は海から逃れることもできず敗走の上、島の西にある大江浦で自害したのである。

晴賢の介錯を行った伊香賀隆正だが、幼いころから養育してきた晴賢の首を自らの手で落とすことは非常につらい作業だったはずである。

主人に最後まで付き添った伊香賀隆正と2人の家臣たちも主人の首を隠した後に自刃した。

この戦いで討たれた陶軍の兵は4780人、捕虜となった者も3000人以上あった。

厳島は現在、島全体が信仰の対象として島そのものが厳島神社の神域となっているが、当時も同じであった。
戦後、毛利元就は島内や厳島神社の社殿などの血の染みた場所の土を取り除き、汚れた場所を洗い清め、死者の冥福を祈ったという。

一時は周防、長門、石見、安芸、備後、豊前、筑前を領し、明との交易や学問・芸術、そしてキリスト教も花咲いた全盛期を謳歌した大内氏も、この敗戦のあと急速に弱体化した。
そして入れ替わりに毛利氏が大内氏の旧領を取り込んでいったのである。

そんな時代の分かれ目を絶望と悲しみの目で見つめたのが、伊香賀隆正の辞世だった。