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後醍醐天皇 最期の言葉 戦国百人一首⑳

鎌倉後期から南北朝時代の第96代天皇・後醍醐天皇(1288-1339)は吉野で崩御した。
左手に法華経を持ち、右手に剣を持って坐ったまま亡くなったという。
その時の最期の言葉である。

後醍醐天皇

      玉骨(ぎょこつ)は縦(たとい)南山の苔に埋まるとも
      魂魄(こんぱく)は常に北闕の天を望まん 
 

我が骨は吉野山の苔に埋まることになっても、我が魂は常に京の空を仰ぎ見続けるだろう。 

後醍醐天皇は自ら政治を行う天皇親政を志し、上皇による院政を否定した。さらに天皇政治に邪魔である鎌倉幕府を倒そうとしたのである。
1332年、計画が露見した時に天皇の座を奪われ隠岐に流されたが、息子・護良親王と忠臣・楠木正成が挙兵し、後醍醐天皇自身も隠岐島から脱出して幕府軍との戦闘となった。

当初後醍醐天皇を追討するために幕府から派遣されていた足利尊氏は、翻って六波羅探題を攻め、新田義貞も呼応して鎌倉幕府・北条得宗家を滅ぼした。
幕府への不満を持つ武士たちと後醍醐天皇の目的の利害が一致し、鎌倉幕府は滅亡したのである。

晴れて後醍醐天皇は建武の新政を行うが、倒幕に活躍した足利尊氏が離反すると、吉野で南朝を樹立した。足利尊氏が立てた光明天皇の朝廷は北朝である。
尊氏は新たな武家政権として室町幕府を開き、世には天皇と称する人が2人同時にあるという南北朝時代が始まった。

後醍醐天皇は、一度は足利尊氏に渡した三種の神器はニセモノだとし、吉野の南朝で京都の北朝に対抗しようとしたわけである。
島流しにあっても、尊氏に去られても、そして吉野に逃れてもなお天皇親政にこだわり続ける後醍醐天皇。
「頑固」「意固地」「負けず嫌い」だけでなく、どこか冷静さを見失い、自身の力を過信しすぎていた印象さえある。それゆえ、決して後醍醐天皇を裏切らなかった楠木正成のような忠義に篤い武将が哀れに映るのだ。

しかし、実際の後醍醐天皇はただのワガママの「俺様」天皇ではなく、情のある人物だったと言われる。
教養もあり、書・文学・茶の湯・音楽など芸術面でも優れた才能を発揮した人物だったのだ。
後醍醐天皇作の和歌も多く残されている。
袂を分かち、敵対勢力となってしまった足利尊氏でさえ、なお後醍醐天皇を敬愛する気持ちを持ち続けたというから、人を魅了する何かを持った人物だったのだろう。

そんな後醍醐天皇の陵墓は、奈良県の吉野山にある如意輪寺内にある。
通常天皇陵は南に面するよう作られるが、後醍醐天皇陵は遺言により北の京都を向いて築かれた。杉木立の中、塔尾陵(とうのおのみささぎ)と呼ばれる円墳が玉垣に囲まれて佇む。
如意輪寺には、後醍醐天皇自作の木造も安置されている。

紹介した後醍醐天皇の最期の言葉は、南北朝時代の軍記物語『太平記』に記されている。後醍醐天皇の臨終の言葉だという。

「死んでも京都を向いていたい」
そんな強い思いを抱いたまま生涯を閉じた後醍醐天皇は、やはり「頑固」である点は間違いなさそうだが。

敵対しながらも後醍醐天皇を敬慕していた足利尊氏は、京都に天龍寺を造営して天皇を弔ったという。