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大嶋照屋の辞世 戦国百人一首㊶

大嶋照屋(おおしまてるいえ)(?-1565)は、㊵で紹介した大嶋澄月の兄であり、同じく肥前国・平戸松浦家の家臣であった。
名は「輝家」とも書く。
さらに、官途が筑前守(ちくぜんのかみ)だったため、「大嶋筑前」とも呼ばれた。

41.大嶋照屋

  仮初めの 雲隠れとは思へ共 惜しむ習ひそ 在り明の月

死は仮初めのことだと思いはするが、名残惜しいものだな、有明の月よ

大嶋照屋は弟の澄月とともに、平戸松浦家の最前線で活躍した戦国武将である。
とはいえ、彼らを知っている戦国武将ファンはそう多くはないだろう。
武将としては無名に近い。

1550年、照屋は「飯盛山城の戦い」で、すでに100丁の鉄砲を用い、500の兵で鉄砲隊を率いて戦いに臨んだ。
当時、非常に高価だった鉄砲を100丁与えられての出陣は、平戸松浦家の照屋に対する信頼の厚さを物語っている。

照屋と澄月兄弟が討死したのは、1566年の「半坂・中里の合戦」である。
相神浦松浦家の伏兵による奇襲、北野源三という強弓使いの活躍があって平戸家は敗退した。

大嶋兄弟は、その時に平戸軍の殿(しんがり)を務めたが、相神浦松浦家による追撃は厳しく、味方の武将たちが次々と倒れていった。
ついに照屋の弟・澄月が倒れて自害。
それでも照屋は奮戦を続けるが、力尽きた。

そのときの辞世が上記の歌である。

弟の大嶋澄月の辞世には、武将としてのプライドと彼自身の名前が詠み込まれてあった。
照屋の辞世にも一見すると見落としそうになるが、武士を連想させる言葉が登場する。
その言葉とは「在り明けの月」。
つまり「有明の月」である。
有明の月とは、夜明けになってもまだ空に残っている月のこと。
弓の弦を張ることができるような弧を描く形の月で、「弓張月」とも呼ぶ。

「有明月」と詠めば「弓張月」を思い起こし、歌の主が武士であることを連想させる。
「生きていることも死んでしまうことも仮初めのこと」と仏教的無常観を根底にしながらも、「名残惜しい」という人間的な照屋の本音がどこか切ない。

大嶋兄弟は死んでしまったが、照屋がかつて率いた平戸松浦家の鉄砲隊は、その後も活躍し、苦い思いをさせられた敵将で弓の名人の北野源三らを翌年に討取っている。
最新兵器・鉄砲の一斉射撃にさすがの源三も弓ではかなわなかった。

こうして戦国時代は、累々と重なる死体の上に戦いが無限のように連鎖していったわけである。