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島津歳久の辞世 戦国百人一首83

島津と聞けば薩摩だ。
島津歳久(1537-1592)は、薩摩の守護大名で島津家第15代当主・島津貴久の仲のよい4人の息子たち、義久、義弘、歳久、家久という「島津4兄弟」の中の3男である。兄弟の中では知略をもって知られ、多くの合戦で2人の兄を助ける活躍をした。

83島津歳久

晴蓑めが玉のありかを人とは々いざ白雲の末も知られず
(この世を去った歳久の魂がどこへ行ったと聞かれたら、思い残すことなく死んで雲のかなたに消え去ってもう分からないと言ってください)

「晴蓑(せいさ)」とは島津歳久の出家名である。
後に残された人々の誰も後を追えないほどあっさりと空へと消えてしまうような潔さがこの辞世にある。

歳久の首が落とされた時、敵も味方も刀や槍を投げ出して泣き伏したという。

島津歳久は、「島津家中興の祖」である祖父の日新斎(じっしんさい)こと島津忠良から、「始終の利害を察するの智計並びなく」と呼ばれた知恵者だった。

島津家が九州統一を目前としたとき、豊後の大友宗麟の助けを求める声に応じた豊臣秀吉が、1586年から87年にかけて九州征伐にやってきた。
歳久は、秀吉の能力を高く評価しており、手ごわい相手だと知っていた。
「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」
そう言って、4兄弟の中でただ1人和睦を主張したのだ。
だが、その考えは家内で一蹴され、島津は秀吉と全面対決をすることとなった。

秀吉の圧倒的な戦力によって島津の形勢が不利となった時、島津家の内部では和睦に考えが傾いた。
だが、今度は4兄弟の中で歳久だけが
「和睦には時勢があり、今、降伏すべきではない」
と徹底抗戦を主張したのである。

結局歳久以外の兄弟たちは降伏・講和し、島津は秀吉の臣下に下った。

そして、その後の歳久の行動はいちいち秀吉に反抗的だと思われたようだ。

・島津歳久の居城・虎居城に泊まりたいと要求する秀吉を拒否した上、挨拶もしなかった(実情は歳久が病のために外出できず)
・陣を薩摩の南部にある祁答院(けどういん)へと移動する秀吉一行のため、道案内となった歳久の家臣が、わざと険しい山道を案内した上、歳久の配下の者が秀吉の輿に矢を射かけた(秀吉は別の輿に乗っており無事)
・秀吉の朝鮮出兵の際歳久は病気を理由に出兵せず(歳久は痛風を患っており出兵できず)

理由があったとしても、歳久の行動で秀吉の心象が悪くならないわけがない。

1592年6月、薩摩の国人梅北国兼(うめきたくにかね)が朝鮮への出征途中に、肥後佐敷城を乗っ取る「梅北一揆」を起こした。
すぐに鎮圧されたが、一揆の仲間に歳久の家臣が多く参加していたことが判明し、秀吉が激怒。
島津義久に対し
「歳久が義弘とともに朝鮮に出兵していたなら歳久の命は助けるが、そうでなければ首を差し出せ」
と命じたのである。

歳久は、風疾(ふうしつ)と呼ばれる病(痛風かリウマチらしい)を患っており、歩行も不自由なほどだった。
兄の島津義久は、そんな彼が反乱計画をするわけがないと助命嘆願するが聞き入れられなかった。
それを知り、放っておけば島津家の存亡に関わる問題だと考えた歳久は、せめて居城・宮之城で切腹しようと船で義久のもとから逃亡。
兄義久も追手を差し向けないわけにはいかなかったのである。

歳久は自分の家臣たちに逃げよと促したが、彼らは共に死ぬ覚悟で一向に離れようとはしなかった。

義久による追撃によって逃亡が阻まれた歳久は、結局瀧ヶ水に上陸した。
そこで自害を試みるが、病のため手足がしびれ、もはや脇差を握ることもできない状態だった。傍らの石で頭を殴り(もしくは腹を割り)自害しようと試みるがそれもできない。
歳久は随分と苦しみながら追手の兵に向かって
「病のため、自刃できない。こちらへ来て首を取れ」
と何度も声をかけるが、彼らの主君である島津義久の実弟である歳久を討取るなど恐れ多く、敵兵の誰もが涙にくれて動かなかったという。
ようやく家臣の原田甚次が歳久の首を落とすと、敵も味方も皆槍や刀を投げ捨て倒れ伏し、声をあげて号泣した。
のち従者27名も殉死している。

手が不自由だった歳久の亡骸から、彼の代わりに右筆によってしたためられた兄義久に宛ての遺書と辞世の句が見つかった。

そこには、
・病のために秀吉の前に出ることが出来なかったこと
・やましいことはないが謀反を疑われた以上、島津家のために切腹すること
・処分に納得できない家臣たちの武士の本分を貫くため、やむを得ず戦うが兄(義久)に弓を引くつもりはないこと、家臣たちに罪はなく、彼らの家族に類が及ばぬように願うこと
などが書かれてあった。

歳久の辞世は細川幽斎の手に渡り、教養人として知られた幽斎はこの句を添削した上で秀吉に披露した。

以下は幽斎の添削後のもの。

晴蓑めが たまのありかを 人問はば いざ白雲の 上と答へよ
(歳久の魂はどこへ行ったと聞かれたら、無実だったので天界へ昇ったと答えて下さい)

歳久の首級は、京の一条戻橋に晒された。
それを家老であり従兄弟の島津忠長が盗み出し、浄福寺に葬ったとされるが、彼はその後も朝鮮出兵で活躍しており、この事で罰を受けたという記録はない。

1598年、豊臣秀吉が死没した。
島津義久は、すぐさま翌年に歳久最期の地に菩提寺・心岳寺(現鹿児島県鹿児島市吉野町の平松神社)を建てて弟を弔っている。

また以下は、義久が歳久を悼む歌である。

写し絵に 写しおきても 魂は かえらぬ道や 夢の浮橋